礼拝説教
出エジプト24:12~18、Ⅱペトロ1:16~21、マタイ17:1~9
今日は山上の変容主日の礼拝です。わたしたちの常識を超えた神秘的な出来事です。イ
エス様がペテロ達3人の弟子を連れて山に登られたときに、姿が変わり、顔が太陽のよう
に輝き、服が光のように白くなったというのです。さらに旧約聖書を代表するモーセとエ
リヤがイエス様のもとに現れイエス様と語り合っていました。さらに、光り輝く雲がかれ
らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という声が雲
の中から聞こえました。驚くような神的な出来事です。
これはどんな意味があるのだろうかとついつい考えてしまいます。この神的な出来事は
イエス様のためでしょうか、それともペトロたち弟子たちのためでしょうか。それを考え
る手助けになるのは、雲の中からの声です。この雲の中からの声、すなわち神さまの声で
すが、その言葉はイエス様に語り掛けているのではなく、ペトロたちに語り掛けています
。なぜなら、この声は「あなたは」と言わず「これは」と言っているからです。この出来
事が共通に載っているマルコ、ルカにおいても同じです。「あなたは」ならイエス様に語
り掛けていることになりますが、「これは」という3人称なのですから、ペトロたち3人の
弟子たちに語り掛けていると言えるでしょう。
ではこれがどんな状況の時かというと、この出来事の少し前に、これはマタイ、マルコ
、ルカ3福音書共通なのですが、イエス様が弟子たちに、「人々は、人の子のことを、何
者だと言っているか」と問われ、弟子たちが「人々は『洗礼者ヨハネだ』『エリヤだ』な
どと答えた後、ではあなたがたはどう考えるかと問われ、それに対してペトロが「あなた
はメシア、生ける神の子です。」と答えました。ペトロたちはイエス様と一緒に行動し、
多くの奇跡を経験しました。そしてまた深い慰めに満ちた教えを聞きました。それゆえに
イエス様こそメシアであるとペトロたちは考えたと思います。
ところがこれを受けてイエス様はここから受難と復活の予告を弟子たちにされます。イ
エス様は苦しみを受けて殺される。そして3日目に復活することになっていると。ペトロ
は驚きます。メシアが苦しみを受ける、そんなことはあってはならない。ましてや殺され
るとは。多分ペトロの耳には前半の殺されるという言葉が響き、復活されることは届かな
かったでしょう。そこでペトロはイエス様をわきにお連れしていさめ始めたのです。ペト
ロにはメシアがそのようになることは信じられなかったのです。
マタイはこの6日後にと記して、今日の日課の山上の変容の出来事を伝えているのです
。神様はこの山上の出来事を弟子たちに経験させられ、そして、「これはわたしの愛する
子、わたしの心に適う者、これに聞け」と弟子たちに言われたのです。実はこの山上の変
容はイエス様の歩みの中で大きな転換点と言われています。それは神の子としてのこの世
の活動、癒しや教えの活動から、十字架への歩みへの転換点であるのです。この受難の歩
みのはじめに、イエス様こそ神さまのみこころに適う方であるからこれに聞けとペトロた
ちに伝えられたのです。メシアであるイエス様が苦しみを受け、殺されることは弟子たち
には受け入れがたく信じがたいことです。でもそのような弟子にこの山上の変容の出来事
を経験させたのです。この後も、イエス様は受難と復活の予告を弟子たちに話されます。
そして十字架を受け取られます。ご存知のようにこの時弟子たちはイエス様を捨てて逃げ
てしまいます。でも神さまやイエス様はこの弟子たちを捨ててしまわれませんでした。わ
たしたちもよく知っているとおり、復活され、それを弟子たちに示され、さらに昇天され
、最後に聖霊降臨の出来事を弟子たちに与えられました。弟子たちはその後、自分の受難
をも恐れず宣教する者へとさせられたのです。
このことを考えるときに、わたしはアブラハムのことを覚えます。アブラハムは「信仰
の父」と呼ばれている人です。あのモリヤにおいて息子をささげたことで有名です。でも
このアブラハムの信仰は始めから確実なものではなく、神様の真実によって育てられたも
のです。わたしはよくこの事を取り上げますので聞かれた方も多いと思いましたが、神様
がアブラハムを呼び出されたとき、子孫が増えるとの約束を与えられました。神様は真実
な方ですからこの約束を破られる方ではありません。しかし人間は移りゆくものですから
、この約束を信じて歩み続けることが出来るわけではありません。しばらく子供が与えら
れないと、不安になり、更に失望してもう子供は与えられないと思い、僕の子を跡取りに
しようと考えます。そこに神様はアブラハムに現れて、子供を与え、その数は星空の星の
ように多くなることを伝えられ、それをアブラハムは信じます。しかし、またしばらく子
供が与えられません。そこで引け目を感じている妻のサラは自分の仕え女によって子供を
作るようにとアブラハムに勧めます。アブラハムはそれを受け入れるのです。そしてイシ
マエルが与えられました。しかしそれは妻サラとの間の子ではありません。神様はアブラ
ハムが99歳、サラが89歳となった時アブラハムに現れ、子供が与えられると言われます
。でもアブラハムはもうイシマエルがいるからいいと言いますが、しかし神様は約束され
たようにサラとの間に子供が与えられると言ってそのようにイサクがサラとの間に生まれ
ました。このことを通してアブラハムは神様が約束を確かに守られる方であるということ
を信頼するようになったでしょう。だからイサクをささげるようにと言われたとき、苦し
いことですが神さまを信頼してモリヤの丘に行ったのでしょう。同じように、ペトロたち
も真実な神様、イエス様によって育てられていったのだと思います。イエス様の十字架の
時逃げて行ったペトロも殉教死を受け取るまでに育てられたのだと思います。
このことを私たちの歩みのあてはめてみると、真実でわたしたちを愛してその命を私た
ちのために差し出されたイエス様、またその父である神さまは、わたしたちの信仰を育て
て、終わりの時に備えさせてくださると思います。信仰的に何か弱い状況になっても、そ
れで絶望することはないと思います。イエス様の方に向いていれば、色々なことで、ある
時は神的な経験を与えられるかもしれないし、ある時は助けてくださるかもしれません。
それによってイエス様への信頼が強まるでしょう。逆に苦しみを与えられることがあるか
もしれません。その時にまたイエス様に心を向けること、信頼することをより強く教えて
くださるかもしれません。真実な神様、そして私たちに命をささげてくださったイエス様
を信頼してこの世の旅路を歩んでいきましょう。