2023年2月12日「イエスの教え」藤井邦夫牧師

礼拝説教

申命記30:15~20、Ⅰコリント3:1~9、マタイ5:21~37

 
 今日の説教題を「イエスの教え」としました。今日の福音書の日課は山上の説教の中の
一部です。マタイ福音書の5章から7章までを山上の説教と題してあるように、そこにはイ
エス様の教えがまとめて示されています。そして今日の日課として与えられている長い個
所はある特徴を持っている個所です。それは「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は
・・・と命じられている。しかし、わたしは言っておく・・・」という共通の表現で、旧
約聖書に示されていることに対してイエス様がさらに深い内容を示された箇所です。それ
が6つあるのですがその中の4つが今日の日課として与えられています。
 例えば殺すなという教えに対して腹を立ててはならないと言われ、姦淫するなという教
えに対してみだらな思いで他人の妻を見るものはすでに心の中でその女を犯したことにな
ると言われ、妻を離婚する場合、離縁状を渡せというのに対して不法な結婚でもないのに
離婚をしてはならないと言われ、偽りの誓いをしてはならないというのに対し一切誓って
はならないと言われています。
 内容を見てみましょう。殺してはならないという十戒の中にある戒めは重要なものであ
ると思います。わたしたち人類が歩むための基本的なものです。これに対してイエス様は
さらに深く、兄弟に腹を立てるものは裁きを受け、「ばか」というものは最高法印に引き
渡され、「愚か者」という者は火の地獄に投げ込まれると言われます。驚きの言葉です。
なぜなら私たち多くのものは、また多くの時に隣人に腹をたて、隣人に悪態をついている
からです。さらに驚くのは、兄弟が自分に反感を持っていると思ったら仲直りをしてその
後に神様の前に出るようにと言われています。また自分を訴える人に対しては和解をしな
さいと言われます。ここも自分が悪く思っているのではなく相手が反感をもったり訴えよ
うとしている時にと言われているのです。
 姦淫をするなという戒めに対して、みだらな思いで他人の妻を見るものは心の中ですで
に姦淫していると言われるのです。ここで「他人の妻」と訳されているギリシャ語の言葉
は「女」の意味も持っています。だから以前の口語訳や最近の聖書協会共同訳では「女」
と訳されています。そうするとイエス様の言われるのはもっと厳しくなります。現代にお
いて様々な映像が蔓延しています。しかもそのような思いをもたらす体の一部を切り取っ
てでもそうでないほうがいいとまで言われているのです。
 離婚をするときは離縁状を渡せと旧約にはあります。これは女性を保護するための取り
決めと言われています。離縁状がない場合は宙ぶらりんになり再婚することはできず姦淫
となったのです。また離縁は男の方からのみ申し出ることが出来ましたし、昔の解釈では
離縁状を渡せと記してあるレビ記の24:1に「妻に恥ずべきこと」というのがあったので
すが、この解釈で、不貞行為と解釈するだけでなく、料理が下手とか、もっと美しい女性
が現れたときとかもそれにあてはめることが出来るという勝手な解釈もあったようです。
それに対してイエス様は離婚はしないようにと言われています。マタイには書いてありま
せんが他の福音書を見ると神様が合わせられたものだから人がこれを破ってはならないと
いう理由が示されています。
 誓ったことは守れということに対してイエス様は一切誓ってはならないと言われました
。誓うということは、何かによって保証することです。そこにはもう信頼関係が他によっ
て保証しなければならないような関係になっていることが示されています。そうではなく
て、誓う必要が無いように、隣人との信頼関係の中に生きるようにとの教えであると思わ
れます。また神様を自分の利益のために用いないようにとの考えがそこに貼るでしょう。

 さて、このようなイエス様の教えに対してわたしたちはどのように相対するべきでしょ
うか。ある人はより倫理性の高いイエス様の言葉を一生懸命守ろうと努力します。またあ
る人はそのようなことは初めからできはしないことだからとイエス様の言葉を横において
しまいます。
何をイエス様はわたしたちに求めておられるのでしょうか。この箇所の前にイエス様は
律法を廃止するために来たのではなく完成するために来たと言われました。だから律法の
心を示したイエス様の言葉を実行することに努力することがイエス様の御心でしょうか。
そう努力することはわたしには律法を実行しようとすることと内容は違っても同じことの
ように思えます。そのような歩みは、イエス様によって言われたことに向かって行って、
いつもできていない自分に出会って、苦しみ続けるか、また根本にはできていないのに出
来ているように形だけ作って偽善に陥るかであると思います。そしてそれは結局自分の義
を求め続けることで、自分に対する誇りに立とうとしているのです。
 このような歩みを私は放蕩息子のたとえの中の兄の姿のように思えます。父親のもとで
、一生懸命働き、父親に認めてもらおうとして生きていました。だから放蕩した後に、心
を変えて帰ってきた弟を父が歓迎しているのを喜べず、自分には友達が来た時も祝いの食
事を催してくれなかったと腹を立てるのです。
 それに対して父親はお前はいつも私と共にいるし、わたしのものはみなお前のものだと
言いました。この言葉は非常に示唆に富んだ言葉だと思います。イエス様によって新しい
ときがやってきました。神を愛し、隣人を愛するという律法の中心をイエス様は完成され
た方です。その深い内容を今日の日課でイエス様は言われましたが、イエス様こそ、その
中に生きておられる方です。イエス様の今日の日課の言葉は、それを私たちが、自分で実
行するように努力せよとの言葉ではなく、イエス様の命の在り方への招きであると思いま
す。信仰によってイエス様を受け取る者はこのような命の世界に招き入れられていること
を示しているのだと思います。イエス様と共にあるとき、イエス様のものは皆私たちのも
のでもあるのです。