2023年2月5日「地の塩、世の光」中島共生牧師

礼拝説教

聖書箇所:マタイ5:13-20
説教題:地の塩、世の光
   『信仰義認』とは、ルター派キリスト教会の中心を貫く概念です。信仰によ
って、義、正しい者とされるのであって、私たち自身には正しさはない。そんな私
たちが正しく在ることができる信仰とは、まさに神さまから与えられた贈り物であ
ると。しかし、私たちには、信仰による義があるからそれで十分でしょうか。人助
けや、誰かのためになることは必要ないでしょうか。ルターも、人の善き業を決し
て意味の無いことと考えたわけではないでしょう。しかし殊更に主張することもあ
りませんでした。業がどれだけ善いものであろうとも、業によって救いを得ること
はできないからです。救いは、ただただ神さまからの恵みである。人間の業の一切
混じらない、純粋な神さまの恵みであると。そのことはよく分かりますし、前提と
して捉えておかなければならないと思います。人の業に焦点を当てた先にあるのは
、人による義、或いは注目され、賞賛されるための業です。だからこそ、今朝の日
課はよくよく聞かねばならないのだと思うのです。なぜイエスさまは私たちを地の
塩だと語り、そして世の光だと語られたのか。あなた方は地の塩となれ、でも、世
の光となれ、でもありません。あなたがたは地の塩だ、世の光だ、そう語られるイ
エスさまの言葉に耳を傾けて行きましょう。
  塩、光、そのどちらも、2000年前にも当然存在しました。人々の生活を支
える、必需品でした。しかし現代のように、コンビニに売っているものでも、ボタ
ン一つで得られるものでもありませんでした。貴重な資源だったのです。塩は食材
の腐敗を遅らせ、また、食材の味を調えます。決してそれだけでは目立たないけれ
ど、なくてはならないもの。けれど、塩はそれ自体で十分でしょうか。塩だけあれ
ば、他はいらない、なんてことはないでしょう。脇役なのです。無くてはならない
脇役。それが塩です。塩は、主役を引き立てるための役割を与えられています。で
すから地の塩、というのは、この世界の隅に追いやられた人を、神さまのもとへと
歩ませる働きを担う、そんな働き人を指す言葉でしょう。決して自分自身のために
存在しているのではない。誰かのために、あなたは存在している。神さまにとって
、あなたは必要なんだ、だからこそあなたは地の塩だとイエスさまは語られたので
はないでしょうか。
  世の光、光は辺りを照らすためにあります。朝日や、ランプの灯りを人々は想
像したでしょう。クリスマスにそれぞれの手元に与えられた光が思い出されます。
真っ暗な会堂に、手元を照らす光が与えられ、クリスマスの礼拝に与ることができ
ました。光は枡の下に置くべきではない、その通りです。光は枡の上、辺りを照ら
すために用いられるのです。教会も同様です。枡の下、目立たない場所に置くべき
ではない。私たちはちゃんと自分たちの存在を世に知らせなければならない。それ
こそが、光に与えられた役割なのだから。この一年、私たちは礼拝のライブ配信を
継続して行ってきました。誰かが、勝手にやっているのではありません。私たちが

、この世の光として、暗闇の中に置かれるのではなく、世を照らす光としてここに
在るために。私たちはこの世界へとみ言葉を届けているのです。慣れない式文、讃
美歌かも知れません。誰に届けるために、やっているのでしょうか。全ての人に、
届けられる権利も、可能性もあるのです。だからこそ、私たちはこれからも、地の
塩、世の光として、歩み続けてゆきたいのです。
  今朝は、福音書ともう一つ、コヘレトの言葉を朗読いたしました。この書物
の書き出しはこうです。「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ
、すべては空しい。(1:2)」コヘレトは何度も「空しい」と繰り返します。この
世を生きることは、なんと空しいことか。しかしコヘレトが気付いたのは、この世
の空しさだけではありませんでした。毎日同じように昇る太陽、繰り返される労働
、どんな些細な事柄であれ、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定め
られた時がある」ということ。だからこそ、生まれてはやがて死にゆく私たちが「
若い日に、造り主を覚え。※口語訳(12:1)」ることには深い意味があるという
ことでした。ですから、コヘレトは『空しい』と言う言葉に、意味を込めてゆきま
す。「すべて神の業は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない
、神は人間が神を畏れ敬うようにと定められた」。神を超えようなどと、神の業に
手を加えようなどとしなくて良い。それは空しいことだ。神に良く思ってもらおう
、見てもらおうとしなくても良い。神は、初めからあなたを見て、そのままのあな
たを必要としているのだから。それがコヘレトの語る、空しさの正体ではないでし
ょうか。
コヘレトの言葉の中に、「三つよりの糸は切れにくい。」という言葉があります
。神と、み言葉と共にあるならば、あなたの心は千切れることがない。あなたが太
く、たくましい紐だから切れにくい、のではないのです。むしろ、か細く、弱々し
い、空しいと自覚するからこそ、初めからあなたの傍に立ち、あなたを見守る神の
存在に気付くことができるのです。そんなあなたと、あなたの隣に座る人と、教会
とが共に在るならば、この教会の歩みは途切れることがありません。そして宇部教
会と、下関教会と、厚狭教会が心を一つに祈り合ってゆくならば、私たちは決して
倒れない。たくさんの物をもっているから倒れないのではないのです。誰かが倒れ
そうだから支えるのでもないのです。私たちは同じように、何も持たないのです。
自らを罪人の一人と数える群れに過ぎないのです。しかし、ここに神とみ言葉が共
に在るならば、私たちは決して倒れないのです。2023年の歩み、どんな幸いな
歩みになるでしょうか。私たちは時宜に適って宣教なされる主に従う群れです
。Facebook、ライブ配信といった新しい言葉はいずれ失われ、別の言葉になるで
しょう。しかし、失われない言葉があります。「ひとりよりもふたりが良い。共に
労苦すれば、その報いは良い。(4:9)三つよりの糸は切れにくい。(4:12)」あ
なたと、神さまが共に労苦する場所、そして幸いについて教えてくれる場所、教会
はそんな場所であり続けるために、今日も、明日もここにあるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いと
を、キリスト・イエスにあって守るように。