2023年1月29日「幸いをもたらす方」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ミカ6:1~8、Ⅰコリント1:18~31、マタイ5:1~12

 
 今日の福音書の箇所を見ると、とても印象的な、わたしたちに深い安らぎや、落ち着い
た希望を与えてくれるものであると思います。わたしの高校生の時代、確か1年生のころ
だと思いますが、一般社会という科目で、世界の先人たちの言葉が載っていました。ソク
ラテスの「汝自身を知れ」とかです。その中に、イエス・キリストの言葉としてこの箇所
が載っていました。わたしの心に深く残ったのはこのイエス・キリストの言葉でした。何
かを求めている年齢ですから、深い意味は分からなくても、「汝自身を知れ」とか「実る
ほど頭を垂れる稲穂かな」とかを印象的に感じていましたが、その中でもこのイエス様の
言葉は特別なものがありました。その時はどうしてかということもよくわかっていません
でした。今考えると、他の言葉は人間の知恵からくるものであるけれど、イエス様の言葉
は深いところからの呼びかけのように感じたのかもしれません。
 9つの「幸いである」で始まるこの箇所は、イエス様の存在そのものの意味を私たちに
示しているように思えます。「幸いである」と呼びかけてくださっているのです。
 この幸いであるという呼びかけは、わたしたちが人は褒められて成長すると言いますが
、この事とは違うと思えます。ほめて人を育てるというのは、子供の自我が否定されない
で、自我が確立していくようにしていくことだと思います。しかし、キリスト教的に言え
ばこの自我の「我」が一番問題で、罪そのものであると言えます。
 一方「幸いである」という呼びかけは、その存在を認める呼びかけです。そして幸いと
言われる人の内容を見れば、この世的にはマイナスに思えるような存在に対して、その存
在を幸いと祝福しておられます。さらに、善い状態への呼びかけ、招きでもあります。こ
の善い状態は決してこの世的な知恵や力、能力ではありません。
 内容を見て見ましょう。この世的にマイナスと思えるものは3節「心の貧しい人々」、4
節「悲しむ人々」、6節「義に飢え渇く人々」です。ルカ福音書にも同じようなものがあ
りますが、そこには「貧しい人々」「今泣いている人々」「今飢えている人々」と同じよ
うなものがありますが、マタイは少しその内容を精神化して伝えているように思えます
。「心の」貧しい人々とか「義に」飢え渇いているとかです。今年はマタイ福音書が日課
ですので、マタイが伝えているイエス様の言葉で見てみましょう。自分の心の貧しさ故に
、自分により頼むことはできず、神様にすがるしかないようなマイナスの状態です。悲し
む人々は何か具体的に悲しい出来事が生じているのかもしれません。しかし、マタイが少
し精神化しているということを見れば、自分自身を顧みて悲しんでいる人々と考えてもい
いかもしれません。義に飢え渇いている人々は、義は決して自分の義ではないでしょう。
神様の義、それを受け取れなくて嘆いている人々です。ルターが「手を洗えば洗うほどそ
の汚れが目に付く」と言ったと言われること、アウグスチヌスが「いつまでですか、いつ
までですか」と泣き伏したことなどが思い浮かびます。それに対して、イエス様はこの人
たちを幸いであると言われています。なぜなら天の国はその人たちのものであったり、慰
められたり、義に満たされたりすると約束されているのです。
 プラスに思える面を見てみます。まず「柔和な人々」です。以前これをマイナスの方に
見たことがあります。それは、困難な状況を与えられて柔和にならざるを得ないという解
釈ですが、今日はプラスの方に見てみましょう。柔和は単にいつもこにこしていることで
はないでしょう。人との関係ですぐに腹を立てたり苛立ったりしない人のことでしょう
。「憐れみ深い人々」、他者に対して深いところでいつくしむ人たちです。「心の清い人

々」、心が真っ白というより、神さまや隣人に対して、悪意を抱かず、善意を持つ人々で
あると私は思います。「平和を実現する人々」隣人や社会の中で争いに生きるのではなく
、平和を実現するように歩む人です。「義のために迫害される人々」神様の義を述べたり
、そのために活動することによって、人々から迫害される人たちです。
 ここでいくつかの点を見てみたいと思います。ここで幸いと言われている人たちは、自
分の力や能力を示したものは何もないということです。人との関係の中に生きていて、良
いものを持って生きているのです。今日の使徒書の後半を見れば、知恵や力や地位のない
人たちが選ばれた人達のほとんどであることが示されています。
 また義というと、良く義による争いが出てきます。人によって神さまの義の解釈が異な
るからです。多くは自分の義の解釈によって戦いを起こしています。しかし、ここで注目
したいことは、今日の旧約聖書でも明らかですが、8節に「正義を行い、慈しみを愛しと
、正義と慈しみが並べて出てきますし、今日の福音書でも憐れみ深い人々と、義のために
迫害される人々が並んで出てきます。さらに旧約聖書では「へりくだって神と共に歩むこ
と」が示されています。義に対してもいつも自分の考えが絶対と思わずに神様の前にへり
くだり、聞いていくことの大切さが示されています。
 このプラスの面が自分自身のことに対してより人との関係に関することで、最近興味あ
る記事が新聞に出ていたのでご紹介しましょう。多分統一教会の宗教2世に関連してこの
記事が出されたと思いますが、ある人が熊本の設立者がキリスト教である慈恵病院で働い
ていますが、幼児の時父親がそこで働くことによってそこにきた者です。ある奇跡的なこ
とを経験して父親はクリスチャンになり、母親もそうなりました。また結婚して、彼の妻
もクリスチャンになりました。でも自分は洗礼をうけていません。アダムとエバの神話的
なことなどが信じられなかったからです。病院自体も両親も妻もキリスト教ですので彼の
心には何かしらの圧迫があったでしょう。あるときNHKの「こころの時代」を見ていたら
、本田哲郎神父が「互いを大切にしあいなさい。これ一つ守れたら、教会に来なくてもい
い。無宗教でもいい。」と言っている言葉に触れて涙があふれ出た経験をしたそうです。
自分なりのキリスト教徒のかかわり方が見つけられほっとしたそうです。それ以後も困っ
て教えが欲しいときはキリスト教が支えになったということです。自分のためにではなく
、神さまと人を大切にすること、そこに今日の日課が伝えてくれることがあるでしょう。