2023年1月22日「宣教のはじめ」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ8:23~9:3、Ⅰコリント1:10~18、マタイ4:12~23

 
 マタイ福音書を書いた人は今日の日課で私たちにイエス様の出来事として何を伝えたい
のでしょうか。わたしたちはここから何を聞き取るのでしょうか。
イエス様はバプテスマのヨハネがヘロデに捕らえられたと聞いてガリラヤに退かれました
。それは身の危険を感じて逃げ帰られたのではなく、後のところから見ると働きへと備え
るためでした。
 マタイはイザヤ書の今日の旧約聖書の日課の部分を用いています。しかしそれを少し変
えて用いています。ゼブルン、ナフタリはイスラエルの12部族一つの部族の名なのです。
ですからゼブルンの地ナフタリの地というのはガリラヤ地方にある土地です。それが紀元
前700年以上前にアッシリアによって攻め取られ、住民は捕囚され、アッシリアは政策と
してそこにイスラエル人以外の人たちを住まわせます。だから異邦人のガリラヤと言われ
ているのです。それに対してイザヤはその暗闇、死が支配している地に救いが来ることを
預言したのです。マタイは今その預言が成就したことを伝えています。一つは旧約聖書の
もともとは光を見、光が輝いたというのは過去形で書かれているのですが、それをギリシ
ャ語に翻訳した70人訳というのはまだ実現していない未来形に変えてあるのだそうです。
マタイ福音書もギリシャ語で書かれているので、その70人訳に影響を受けたと思いますが
、それをもともとの過去形に変えて伝えています。二つ目はイザヤ書では「光が輝いた」
とありますが、マタイでは「光が射し込んだ」に変えてあります。「輝いた」より「射し
込んだ」の方が中に入り込んでいることを印象付ける言葉です。
 そしてこの預言が成就したことを伝えながらマタイは「そのときから」という言葉を加
えてイエス様の「悔い改めよ、天の国は近づいた」という宣教の開始を伝えているのです
。そして、「近づいた」は完了時制が用いられています。これはまさにもう来ていること
を示しているようです。また、「悔い改めよ、天の国は近づいた」はバプテスマのヨハネ
も同じ言葉を言っているのですが、マタイが書いていることを見ると明らかにバプテスマ
のヨハネの方は「悔い改めよ」の方に焦点があり、イエス様の方は「天の国は近づいた」
の方に焦点があると思えます。
 長々と説明しましたが、ここで私がお伝えしたいこと、聞き取りたいことは、イエス様
によって新しいときがやってきたということです。イエス様の宣教は新しいとき、神様の
まことの支配の時がやってきたということです。恵みに満ちたとき、神様の支配の時、天
の国の時がやってきたということです。その中にわたしたちは入れられているということ
です。
 今日の日課の後半は4人の弟子たちの召命の出来事ですが、この箇所も宣教のために弟
子たちが必要であるということに焦点を当てるのではなく、4人の弟子たちもその新しい
ときに招かれていることに焦点があるように思えます。そのことが、従おうかどうかの葛
藤をしたのではなく、思わずすべてを捨ててイエス様に従ったように示されていると思い
ます。
このような中で今日の使徒書の箇所は何か違和感を覚えるような個所です。なぜならコリ
ントの教会の中で争いがあることが伝えられているからです。実はコリントの教会はいろ
いろな問題をかかえていて、この手紙はそれに対してパウロが応えている内容を持った手
紙です。しかしパウロはこの教会の信徒の人たちを聖なる者と呼んでいますし
、1:4~10を見ればイエス様によって恵みを受けた彼らのことを神様に感謝しているし
、彼らが神様によって導かれ、育てられることを信じています。しかし、その彼らに分派

が生じ、わたしはだれだれに着くということが生じているのです。分派が生じるというこ
とは、パウロが色々な手紙の中で、神様は人それぞれに違った賜物を与えられ、その違っ
た賜物によって一つの体が形作られているという考えに真っ向から反対の状態です。分裂
が生じるということは、賜物に優劣をつけ、賜物を誇るところから来ます。それは古い自
分、肉に支配されることからくるものです。
 確かに、わたしたちは体を持って生きていますので、自我に支配された肉によって生き
る経験をしています。だから自らを振り返ると「ああ」と暗い思いにとらわれます。「悔
い改めよ」というバプテスマのヨハネの言葉、またイエス様の言葉があります。しかし今
日の日課がわたしたちに伝えていることは、このくらい思いに支配されること、そこに留
まるのではなく、新しい始まり、神の支配がやってきていることに目を向けること、その
光の中で歩むことだと思います。
 今日の使徒書の日課も「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、
わたしたち救われる者には神の力です」までが与えられているのです。「キリストの十字
架が空しいものになってしまわないように」その光が与えられているのですから、その光
を受け取って歩んでいきましょう。