2023年1月15日「神の子羊」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ49:1~7、Ⅰコリント1:1~9、ヨハネ1:29~42

 
 神様がわたしたちに最大の愛のプレゼントをしてくださいました。それは神の独り子を
人間としてこの世に送ってくださったことです。そしてここのところ日曜日の日課ごとに
この方がどのような方であるかが知らされています。そして今日はバプテスマのヨハネの
証により「世の罪を取り除く神の小羊」ということが知らされています。この内容はのち
に十字架の出来事の時に十分に知らされるでしょうから、今日はその内容を見るのではな
く、わたしたちにこの方が示されること、そこに注目したいと思います。
 今日の福音書の日課の前半には「わたしはこの方を知らなかった」というバプテスマの
ヨハネの言葉が2度出てきます。31節と33節です。イエス様に出会って「世の罪を取り除
く神の小羊」と弟子たちに示した後の言葉です。わたしより優れた方が来られると言った
のはこの方のことであると言った後の言葉と、神さまが、霊が降ってその人の上にとどま
れば、その人が聖霊によって洗礼を授ける方であるという啓示を受けて、イエス様の上に
霊が降ってきたのをバプテスマのヨハネは見たので、イエス様のことを神の子と証しした
という前にもう一度言っています。何のためにこの言葉を2度も書いたのかを考えてみま
した。「知る」という言葉は聖書では単に知的に知るということではなく、「交わりに入
っている」ことを示しています。ヨハネはイエス様と交流がなかったけれど(知らなかっ
たけれど)、神様に示されてイエス様が神の子であると弟子たちに証ししたのです。
 後半部分は翌日のことです。バプテスマのヨハネが二人の弟子と一緒にいたときのこと
です。後の方を見ればその二人のうちの一人はペトロの兄弟アンデレであることが分かり
ます。バプテスマのヨハネはイエス様のことを「見よ、神の小羊」と言います。そうする
と二人の弟子はイエスの後についていきます。するとイエス様は彼らの方に振り返って「
何を求めているのか」と問われます。すると二人は「どこに泊まっておられるのですか」
と尋ねます。何かこの問いを見ると私は不思議な感じを思います。どこに泊まっているか
など聞くような場ではないだろうと感じるからです。彼らはついてきなさいとのイエス様
の言葉に従ってついて行って一緒に泊まるのです。するとその次の日に違ったことが生じ
るのです。それはアンデレが今度は兄弟ペトロにイエス様のことをメシアに出会ったと証
しているのです。
 ヨハネ福音書には言葉を、始めに出た{知る}のように意味を持って使っている所があ
ります。それは後半の部分においては「泊まる」という言葉です。この「泊まる」という
言葉のもともとの言葉は「留まる」という意味を持った言葉です。そしてこの「留まる」
はヨハネ福音書においては40回も用いられるほど特別な言葉なのです。この言葉は神様と
イエス様、イエス様と弟子たちの独自の同一性、深い交流を示す言葉としてあります。例
えば「神がイエスにとどまり、イエスは神の愛にとどまる」とか「イエスは弟子たちの内
にとどまり、弟子たちはイエスの愛の内に留まる」という風に使われています。すなわち
「どこに泊まっておられるのですか」という問いは一見何の意味もない問いのように思え
ますが、単なる場所の問いではなく、「神様のご計画の中のどの位置におられるのですか
」もっと平たく言えば「あなたはどなたですか」という問いなのです。
 弟子たちはイエス様のところに「泊まる」ことにより、「イエス様の内に留まる」こと
により、イエス様と深い交流ができ、今度はイエス様を証しするものに変えられているの
です。だからアンデレは兄弟ペトロにイエス様のことを「メシア」と証ししたのです。
 今日の使徒書の日課の最後のところに「神は真実な方です。この神によって、あなたが

たは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わるに招き入れられたのです。」と
いう言葉があります。今日の福音書の箇所の二つのキーワード「知る」「泊まる」も今日
私たちが日課の中から聞くべきことを示しています。「知る」は単なる知的に理解するこ
とではなく、その中で生きることを意味していますし、「泊まる」は単なる空間的なこと
ではなく、その関係の中にとどまり続けること、その関係の中に生き続けることを意味し
ています。その時、アンデレが受けるものから証しするものに変えられたように、わたし
たちも喜びをもってキリストの命に生きるものに変えられていくでしょう。クリスマスか
ら聖霊降臨までイエス様がどんな方かがわたしたちに示されています。今日の日課ではイ
エス様のことを「世の罪を取り除く神の小羊」ということが示されており、そしてそこに
は「知る」ことと「泊まる」ことがキーワードとなっています。わたしたちは単に聖書か
ら知るだけではなく、御言葉によってイエス様のことを告げられるだけではなく、そのこ
とを受け止め、そこにとどまり続けて生きることが求められています。