2023年1月1日「権力の残酷さから守られて」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ63:7~9、ヘブライ2:10~18、マタイ2:13~23

 
 今日はイエス様がどのような経験をされて、わたしたちの救い主になられたかのひとつを福
音書を通して見てみたいと思います。その際に今日の旧約聖書も使徒書もその内容を伝えてい
ますのでまずそこを見てみたいと思います。
 まず旧約聖書ですが、このイザヤが語った個所には神様がイスラエルの民に対して多くの恵
みと憐れみを豊かに与えられたことに対する讃美が書かれています。その中に神様がイスラエ
ルに対してしてくださった姿が次のように書かれています。「彼らの苦難を常にご自分の苦難
とし」さらに「昔から常に彼らを負い、彼らを担ってくださった。」と。ここには神様は遠く
離れた神様ではなく、また抽象的な神様ではなく、イスラエルと共に歩んでくださったこと、
それだけではなく彼らを背負って歩んでくださった方であることが示されています。
 使徒書のヘブライ人への手紙の箇所には、まずイエス様は人間のことを兄弟と呼ばれたこと
が記されており、更に「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのもの
を備えられました。」と伝えます。ここでいう「子ら」は兄弟と呼ぶことを恥とされなかった
人間のことを表わしています。血と肉を持つ人間、この世で生きていくときに喜びも苦しみも
含めて様々な経験をする人間、それと同じようにイエス様も肉と血を持った人間となられたこ
とを示しています。そして最後の方に「それで、イエスは、神のみ前において憐れみ深い忠実
な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての兄弟たちと同じようにならねばならなかっ
たのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助け
ることがお出来になるのです。」最後にはイエス様もまた私たちと同じような試練に遭われた
ことが強調されています。
 福音書から聞いてみましょう。今日の箇所は東方の3博士がイエス様のところに来て、その
誕生を喜び、贈り物をしたすぐ後の出来事です。家畜小屋で誕生されたイエス様を祝いに来た
人たちを聖書は2種類の人たちで伝えます。羊飼いたちと東方の博士たちです。降誕劇の時私
たちがいつも経験している人たちです。しかしこの喜びの出来事のすぐ後に悲惨な出来事が生
じます。主の天使が夢の中でヨセフに現れ、エジプトに逃げるようにと告げます。それはヘロ
デ大王が、この子を殺そうとしているからとの理由です。ヨセフはすぐに幼子と母マリアを連
れてエジプトに逃亡し、エジプトで逃亡生活を送ります。
 案の定、自分の王座に対して不安を感じたヘロデは、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の赤
子を皆殺しにしてしまうのです。この残虐な出来事はのちの世に絵にも描かれるようになりま
す。赤子を殺すことの残虐さと、その母親の悲しみの大きさがそこに示されています。なぜイ
エス様は助けられたのに、多くの赤子の命が奪われたのかとの疑問もわくかもしれません。し
かし、イエス様はのちにその命を十字架によって奪われるのです。そこには人間の罪の大きさ
と、神様の深いご計画があると考えられるのです。
 今日の日課で私たちが気付くべきことは、イエス様は赤ちゃんの時から逃亡生活をされなけ
ればならなかったということです。外国の地で、しかも大国エジプトの地で、エジプトの人た
ちにとってユダヤ人は低く見る相手です。大工としての技術を持っていたヨセフは、それで生
計を立てたかもしれません。しかし楽な生活ではなかったでしょう。イエス様の誕生は紀元前
6年ごろと言われていますし、ヘロデ王が亡くなったのは紀元前4年であったとされています
。2,3年以上の逃亡生活を経験されたのです。しかも自分のために多くの赤子が死ななければ
ならなかったということは成長された後のイエス様にとって重いことであったでしょう。肉と
血を持たれたイエス様はわたしたちと同じように不遇の時を経験された、と今日の日課は伝え
ているのです。それゆえにわたしたちの苦しみをしっかりと理解してくださる方、それだけで
はなく、わたしたちを担ってくださる方であることを今日の日課はわたしたちに伝えています


 私たちの人生には様々な出来事が生じます。精神的に苦しいとき、重い病気や事故に遭って
肉体的に苦しいとき。その時、私たち信仰者は神様やイエス様に祈ります。助けてくださいと
。そのとき神さまからの助けや慰めを経験する方もあるでしょうが、多くは神様やイエス様が
黙っておられるように感じるのではないでしょうか。聖書の中にもそのように叫ぶ人達が多く
出てきます。しかし心を静めて待つとき、今日の日課が示しているように、神さまやイエス様
からの働きかけに気付く時が与えられるでしょう。最後に多くの方が知っておられる詩から聞
いてみたいと思います。

あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、渚-なぎさ-を歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

一つは、わたしのあしあと、
もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには、一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生で一番つらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生の一番つらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
一番あなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません」
主は、ささやかれた。

「私の大切な子よ。私は、あなたを愛している。
あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとが一つだったとき、
私はあなたを背負って歩いていた」