2022年12月18日「神は我々と共におられる」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ7:10~16、ローマ1:1~7、マタイ1:18~25

 
 今日の日課はインマヌエル預言とその成就が示された個所です。そして福音書にはイン
マヌエルは「主が我々と共におられる」という意味であることが示されています。今日は
この事を聞いてみたいと思います。
 今日の旧約聖書の日課も、福音書の日課も困難な状況、暗闇が存在することが出てきま
すが、それに対するそこに出てくる二人は全く逆の歩みをしていることが示されています
。旧約聖書には南ユダ王国の王アハズが出てきます。彼の時代にアラムの王と北イスラエ
ル王国の王が南ユダ王国に攻め寄せてきました。この二つの国が同盟を結んで攻め寄せて
きたことは南ユダ王国の民にしてもその王アハズにしても大きな動揺を与えるものでした
。その様を聖書は「森の木々が風に揺れ動くように動揺した」と書かれています。それに
対して神様は預言者イザヤを通して、彼らの悪だくみは成就しないこと、そしてそのこと
を表わすしるしを神に求めるようにと伝えます。それに対してアハズ王は「主を試すよう
なことはしない」としるしを求めることはしませんでした。神様を試みてはならないとい
うことを聞いている私たちは、一見このアハズ王の態度は信仰深いように見えますが、実
はそうではありません。一つの理屈から神様の言葉を拒否して、神様により頼むことをし
ないで、その当時の強大な国アッシリアに助けを求めたのです。見える力に頼ったのです
。その結果南ユダ王国はアッシリアの属国になり、貢物を治める関係になったのです。こ
のアハズ王の態度に対して、神さま自らがしるしを与えられました。そしてその予言が「
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」という預言と
なったのです。その預言が福音書では成就したことが示されています。
 
一方福音書にはマリアのいいなづけヨセフが出てきます。ヨセフの身には動揺する苦し
いことが生じました。それはいいなづけのマリアがまだヨセフと一緒になっていないのに
身ごもったということが生じたのです。ヨセフは正しい人であったので苦しみました。多
分その葛藤は大きなものであったでしょう。そして多分想像するとマリアを世間の風にさ
らさないようにひそかに離縁しようと思っていました。なぜなら、婚約は当時結婚と同じ
ような意味を持っていたので、その時他の異性と関係を持つことは姦淫とみなされ、石打
の刑になったのです。でも悩んでいるときに神様の側からの働きがありました。夢の中に
天使が現れ、マリアは聖霊によって身ごもったこと。その名をイエスと名付けるようにと
伝えます。そしてこの出来事は預言者イザヤの「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産
み、その名をインマヌエルと呼ばれる」ということの成就であることが示されます。ヨセ
フはこの神様からの働きを受け入れてマリアを妻として迎え入れました。苦悩の中でヨセ
フは目に見えない神様からの働きかけを受け取ったのです。
 話は変わりますが、今火曜日の午後2時から「聖書を読む会・信徒の集い」という会が
持たれています。以前は中島先生が中心にされていましたが、体調の面などもあり、止め
になり、そこで信徒の人たちでこの会が始められました。以前はわたしの感覚では先輩牧
師がいるとやりにくさがあると思うので私は出席しませんでしたが、今度は出席者が4人
と続いており、また呼びかけもありましたので、教会員の一人としてこの会に出席してい
ます。
そこでは聖書日課に基づいての聖書から聴く時があり、その後、ボンヘッファーの交わ
りの生活をFEBCの放送の録音を聞きながら学んでいます。江藤直純先生がわかりやすく

解説している番組ですが、その中で先日第1コリント書の13章愛の賛歌として有名な個所
を取り上げられました。そこに愛の特質として「愛は忍耐強い、愛は情け深い、ねたまな
い、愛は自慢せず、高ぶらない、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを
抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、す
べてに耐える。」という有名な個所がありますが、番組の中で、この愛というところに
、「わたし」というか自分の名前を置くと、最後まで言い続けることが出来ない。なぜな
ら自分はそのようには到底出来ていないから。その愛というところにイエスを入れれば最
後まで言える。イエス様はそのような方であり、愛そのものであるからということが言わ
れました。番組の司会者もそして聞いている私たちもそうだと思って聞いていました。家
に帰ってから、今週の日曜日の日課を黙想しながらこの事を考えているときに、はっと次
のことが思い浮かびました。「わたし」を愛のところに置き換えてはとうてい出来ない、
イエス様を置くといいということで終わっていれば、この愛の賛歌の箇所は単なる努力目
標に終わってしまう。または高根の花に過ぎなくなってしまう。そうではない、このパウ
ロが書いていることはパウロ的に言えばこのように読むべきではないか。わたしの内に共
におられるイエス様は忍耐強い、わたしの内に生きて働いておられるイエス様は情け深い
、わたしの内に共におられるイエス様はねたまない・・・。あのパウロがガラテヤ所
2:20で言っている「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたし
の内に生きておられるのです。」と言っていることから見ればこうではないかと聞いたの
です。
私たちにとって喜びの出来事であるクリスマス、イエス様の誕生はこのイザヤの預言「
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ばれる」が成就し
たということは「神が我々と共におられる」ということが成就したことです。すなわちキ
リストが我々と共におられるということが成就したことです。今年のクリスマスはこの事
を特に心にとめて、喜びの時としましょう。わたしに目を向ければ確かに完全な愛の人と
は言えないでしょう。しかし、わたしの内に生きて共におられるイエス様に目を向ければ
完全な愛の方と言えるでしょう。ヨセフが天使の言葉を受け入れたように私たちも「神が
我々と共におられる」という神さまからの声を今年のクリスマスは受け入れていきましょ
う。