2022年12月11日「来るべきお方」中島共生牧師

礼拝説教

福音書箇所:マタイ11:2‐11
説教題『来るべきお方』
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
クリスマス(イエス・キリストの降誕)を待ち望むアドベントの期節を過ごしています。今朝は待降節第三主
日少しずつ、そして確実に、その日は近づいています。この待降節から、私たちは新しい式文、そして教会に
よっては新しい讃美歌を用い始めています。慣れ、不慣れはそれぞれあるでしょうけれど、目指しているとこ
ろは一貫して一つです。『教会がすべての人に開かれるために』そのことだけに目を留めて、私たちは脇目
も降らず歩んでいます。著作権の問題や、次世代へのバトンとして受け取りやすいもの(メロディー)を、相応
しい言葉を…、理由は探せばいくらでもあるでしょう。しかしその真意は、一つです。明日、来週、1年後、10
年後に、教会を訪れる人のために。彼ら、彼女らへの道備えとして、私たちは共に歩んでいます。
聖書には、イエス・キリストの宣教を前に、道備えをした人物として洗礼者ヨハネの姿が記されています。
先週聞いた福音書日課では、ヨハネはヨルダン川で多くの人々に悔い改めの洗礼を施していました。これ
から来られる方がどういうお方か、私はその履物を脱がせる値打ちもないけれど、その私に託された使命が
ある。日課はここまででしたが、その直後、ヨハネの前にイエス・キリストが現れます。そして私に洗礼を施し
てほしいと願うのです。ヨハネは狼狽えます。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、
わたしのところへ来られたのですか。」ヨハネは、目の前にいるお方が誰なのか、分かっているようです。これ
まで行ってきた道備えが、終わりを迎えたと思ったでしょうか。ついに、その日が訪れたと喜んだでしょうか。
聖書が語るのは、それからしばらくして、イエスさまが方々で病の人を癒し、神の国の訪れを報せたという出
来事、そしてそのことを耳にしたヨハネが、イエスさまのもとへ人を遣わし、「来るべき方は、あなたでしょう
か。」と問うた、ということです。言葉を付け加えることが許されるならば、これはこういう言葉でしょう。『私は
あなたを来るべき救い主だと思っていた。しかし、私は今牢に入れられている。明日の命さえ保証されていな
い。あなたが、救い主ならば、どうして私は今、このような状況に置かれているのか。あなたは、本当に救い主
なのか。』ヨハネの疑い、と言って良いでしょう。ヨハネにとって、救い主の到来と、今自分が置かれている現
実とは、あまりにかけ離れている。救い主はまだ来ていないと考えることが、ヨハネにとっては“希望”だった
かも知れません。そうであれば、納得がいく。諦めがつく。イエスさまは、遣わされてきたヨハネの弟子たちに
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い
皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知
らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」と伝言を託します。「見聞きしていること」、とは忠実
に訳すならば、『聞いたこと、そして見たこと』という言葉になります。ヨハネの弟子たちは、その場にいるかつ
ての病人、かつての悲しむ人が、癒され、平安な面持ちで佇んでいることを見ました。しかしイエスさまはヨ
ハネに、『あなたの弟子が証人じゃないか』とは言いません。聞くことを信じろ、それがイエスさまのヨハネへ
のメッセージでした。
マタイ福音書には、私たちが思い描くクリスマスは出て来ません。イエスさまがこの世にお生まれになるに
あたって記されるのは、ヨセフの葛藤、ヘロデによる幼児虐殺、ベツレヘムという寂しい街に神の子がお生ま
れになったということです。イエスさまの誕生を温かみのある、愛に溢れた良い話でまとめるつもりが毛頭あ
りません。ベツレヘムを血なまぐさい争い、人間の複雑な思いで彩るのです。神の国の訪れ、そしてこの世が
力でもって神の国を襲う姿を記すのです。

2

洗礼者ヨハネは、たった一人、冷たい牢屋の中で報せを待ちました。『本当に、あなたが救い主なのです
か』怒りや、諦めや、希望が入り混じったヨハネの心の問いです。この牢屋はまるでヨハネにとってのベツレ
ヘムです。力で押さえつけられ、虐げられ、それでも希望が必ず来ることを待ち望むヨハネのもとに、救いの
報せは届いたのでしょうか。
イエスさまは、ヨハネの使者に言葉を託し、目の前にいる弟子たちに宣言します。「あなたがたは、何を見
に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな
服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者で
ある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの前に道を準備させよう』/と書いてあるの
は、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れ
なかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」ヨハネへの最大限の賛辞と言えるで
しょう。イエスさまを信頼しきれないヨハネ、それでも、彼は風にそよぐ葦のように、あっちへこっちへとふらふ
ら頭を振るような者ではないとイエスさまは断言します。救い主のため道備えをしたヨハネは預言者以上の
者である。しかし…そのヨハネでさえ、天の国で最も小さな者には及ばない。ヨハネを認めつつ、天の国に
ある大きな喜びを語ります。これはどういうことでしょうか。私はこのイエスさまの言葉を、ヨハネへの励まし
だと受け止めました。ヨハネは、自らが置かれた状況、目の前にある現実に、救いを確信することができずに
います。その目で見て、その手で触れたにも関わらず、「来るべき方は、あなたでしょうか。」とイエスさまへ疑
問をぶつけます。そのヨハネにイエスさま掛けた言葉が、『あなたは風にそよぐ葦じゃない。その耳に届いた
報せを、受け取りなさい。』というものでした。
ヨハネが自分の弟子からこれらの言葉を受け取り、救いを確信して歩んだかどうか、聖書には記されて
いません。しかし、イエスさまがヨハネを『風にそよぐ葦ではない』と言っておられるのですから、福音を受け
取って歩んだのでしょう。ヨハネがこの報せを受け取ったのも牢屋の中でした。彼は最期まで牢屋の中で過
ごすのです。冷たい、孤独な牢屋の中であっても、ヨハネは喜びに溢れていたでしょう。そこがどこであれ、
主の言葉が共におられるならば、そこは天の国となるのです。ヨハネのベツレヘムは、やはりこの牢屋です。
多くの人々に受け入れられ、賞賛されたヨルダン川ではない。イエスさまに洗礼を施した、奇跡の水辺でも
ない。誰もいない、寂しい牢屋。しかし主の言葉が届けられたヨハネにとって、そこは天の国となったのです。
私たちのベツレヘムはどこでしょうか。救い主の到来に相応しい場所はどこでしょうか。そこは、私たちが“こ
こ”と思う場所ではないかも知れません。まさか、よもや、在り得ないと思うそこにこそ、神の子はお生まれに
なるのです。それがどこであっても、必ず訪れる救いの日を私たちは確信して歩んでいきましょう。あなたの
ことも、『風にそよぐ葦ではない』と主は語っておられるのです。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあっ
て守るように。