2022年12月4日「主が来られる前に」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ11:1~10、ローマ15:4~13、マタイ3:1~12

 
 待降節第2主日に与えられた福音書の箇所はバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨ
ハネと言えばイエス様の前の人ですから、神様の救いの出来事はまだだと私たちは思うか
もしれませんが、しかしバプテスマのヨハネの活動は神様の救いの出来事の始まりなので
す。そのことをルカ福音書ではイエス様の誕生の出来事ではなく、バプテスマのヨハネの
誕生の出来事から始めています。ですから神様の救いの出来事はもうバプテスマのヨハネ
から始まっているのです。そして共観福音書はすべて救いの出来事の活動をバプテスマの
ヨハネの活動から始めています。確かにヨハネの活動は主イエスが来られるための道備え
であることが示されていますが、しかし、ヨハネの活動も神様がわたしたちを救いへと導
くために与えられたものです。だから私たちはイエス様の誕生であるクリスマスを迎える
とき、ヨハネの言葉、活動をもその悔い改めよという言葉をも神様の救いの出来事の始ま
りとして受け取らなければならないのです。
 今日与えられている他の日課をみると旧約聖書は前半はダビデのすえから救い主が現れ
、その救い主の特徴が示されている預言のところですし、後半はすべてものもが、猛獣さ
えも平和に暮らしている感動的な終末の様が示されています。ですからここでは救いその
ものが書かれているのです。また使徒書も単なる人間の準備の時ではなく、もう救いが来
ていること、そしてそれは異邦人にも及ぶことが示されている個所です。そのような中で
、福音書はバプテスマのヨハネの箇所が与えられているのです。くどいようですが、ここ
で私がお伝えしたいことはクリスマスはイエス様の誕生から始まるのではないこと、神様
の救いの出来事はイエス様の誕生から始まるのではないこと、バプテスマのヨハネの出来
事も、神様がわたしたちに救いを与えるために、わたしたちに与えられたことであるとい
うことです。バプテスマのヨハネの印象は厳しい姿であると感じる方が多いと思いますが
、だから神様の愛はイエス様の誕生に現れているとわたしたちは思いますが、神様の愛は
バプテスマのヨハネから、もう現れているのです。バプテスマのヨハネの活動を単なる準
備の時と考えないで、それも神様の救いの出来事の始まりなのだということを覚えること
が大切です。
 では神様はヨハネを通して何を私たちにもたらされたのでしょうか。ヨハネの言葉は「
悔い改めよ。天の国は近づいた」でした、そして洗礼活動でした。ルカ福音書ではこのバ
プテスマのヨハネの洗礼のことを罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼と言っていま
す。ですから「悔い改め」が中心なこととしてそこには示されています。
 では「悔い改め」とは何でしょうか。ふつう私たちは何か悪いことをしたらそのことを
悔いる、それを悔い改めと思います。しかし、「悔い改め」は何か悪いことをしてしまっ
たと悔いることではなく、方向転換、生き方の方向を転換することを意味しています。す
なわち神さまの方に向くことを示しています。自分、自分、自分。私、私、私。わたしが
豊かになりたい。わたしが認められたい。わたしが楽しみたい。そのように自分や物に向
かっていたものが方向転換して、神様の方に向かうことを示しています。
 そしてバプテスマのヨハネが直接語る相手はルカ福音書では群衆や徴税人や兵士に対し
てですが、マタイでは特に取り上げているのはファリサイ派やサドカイ派の人々に対して
です。ファリサイ派やサドカイ派の人たちは信仰者の代表です。その人たちに向かって「
蝮の子らよ」と呼びかけ、「我々の父はアブラハムだ」などと思っても見るなと語りかけ

ています。アブラハムは信仰の父と呼ばれている人ですし、神様はアブラハムを呼び出す
とき、彼の子孫が栄えることを約束されました。だからアブラハムの子孫だという思いは
、自分たちは大丈夫だという思いに通じているでしょう。そこにより頼むのではなく、ア
ブラハムの子孫として実を結べと言っているのです。
 これはわたしたちにとって耳の痛いことかもしれません。わたしたちは信仰者として生
きています。わたしは毎週礼拝に出ている。お祈りもしている。聖書も読んでいる。その
ように信仰者として守るべきものをしているだから安心だとは言えないことを示している
のではないでしょうか。それが形式的になっていないか。まことに神様、イエス様の方に
心を向けて歩んでいるかが問われているのではないでしょうか。クリスマスと言って喜び
楽しむだけではない。救い主を喜ぶだけではない。その方を迎い入れて、その方に結ばれ
て歩むようにと示されていると思えます。先週のパウロの言葉を借りれば「主イエス・キ
リストを身にまといなさい」そのことを受け取って歩むことが示されているでしょう。今
日の使徒書の箇所でパウロは人生のあらゆる歩みの中に置かれているローマの信徒たちに
「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思い
を抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父で
ある方をたたえさせてくださいますように。」と言っています。
 そのためには私たちの心は神様の前に低められなければなりません。高ぶっているとき
は、決して悔い改めには向かいません。自分の思いに、邁進してしまうのです。神様によ
って低められて、神様の救いの出来事を受け取って歩んでいきましょう。