2022年11月27日「ただ、父だけがご存知である」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ2:1~5、ローマ13:11~14、ルカ24:36~44

 
 いよいよ待降節が始まりました。教会暦の新年でイエス・キリストの救いの出来事の始
まりの時です。この日のテーマは終末の時、再臨の時です。わたしたちの信仰の歩みは終
わりの時に向かっての歩みです。その時に与えられた聖書の箇所のキーワードは福音書は
「目を覚ましていなさい」ですし、使徒書は「主イエス・キリストを身にまといなさい」
ですし、旧約聖書は「主の光の中を歩もう」です。わたしたち信仰者の歩みに対する勧め
の言葉であることがよくわかります。初めも言いましたが、わたしたち信仰者の歩みは終
末に向かっての歩みです。終末は最後の審判とも言われますので、わたしたちはその時裁
きを想像して恐れを感じるかもしれません。しかし、終末は神様の義が完全な形で成り立
っている喜びの時でもあります。そのことを今日の旧約聖書の日課は良く表しています。
そうであっても、弱い、不完全な私たちは、終末に向かっての歩みに不安を持ち、「目
を覚ましていなさい」と言われても恐れを感じるかもしれません。しかし、愛である神さ
まはわたしたちの終末に向かっての歩みを孤独の中に放り出されているわけではありませ
ん。御子を私たちの中にわたしたちと同じようにして送ってくださり、また私たちのため
にその命を十字架にかけて神様のもとに歩むことが出来るようにしてくださったのです。
だから私たちの歩みは孤独の歩みではありません。イエス様が共にいてくださる歩みです

 そのためにわたしたちは毎年毎年繰り返して、イエス・キリストがどのような方であり
、わたしたちのために何をしてくださったかを覚えていくのです。その最初がイエス・キ
リストがこの世にわたしたちと同じ体を持ってこられたことを覚えるクリスマスの時です
。喜びの時です。
 終末の時まで私たちがイエス様によって導かれていることをよく表しているのが、ヨハ
ネ黙示録7章に示されている終わりの時の情景です。そこに描かれているのは玉座に座っ
ておられる神様と贖いのいけにえとしてささげられたことを表わしている小羊としてのイ
エス・キリストです。その前に白い衣を着た大群衆がいます。そこでは神様をすべてのも
のが讃美している情景が示されています。まさに終末の時の情景と考えていいでしょう。
その時長老の一人が著者のヨハネに問いかけます。「この白い衣を着た者たちは、だれか
。またどこからきたのか。」と。ヨハネは当然分かりません。だから「あなたがご存知で
す。」と答えます。それに対して長老は「彼らは大きな苦難を通ってきた者で、その衣を
小羊の血で洗って白くしたのである。」と答えます。そのことはわたしたち自身が自分の
力や正しさで終わりの時に神様の前に集うことが出来るのではなく、イエス・キリストに
よって神さまの前に出ることが出来るようにされていることを示しています。
 今日の説教題を「ただ父だけがご存知である」としましたが、これは今日の福音書の中
にあるイエス様の言葉です。「その日」すなわち終末の時はいつ来るかわからない。神様
だけがその時をご存知であるということが言われています。だから眠っていないで目を覚
まして歩むことをイエス様は勧めておられるのです。多くはそのことに備えないで飲んだ
り食ったりしている。でも終わりの時がいつ来るかわからないので「目を覚ましていなさ
い」と言われているのです。でもこの世を歩んでいるときにいつも目を覚ましていること
は困難に思えます。さまざまなことがわたしたちを襲ってくるし、わたしたちの中からも
様々なことが出てくるからです。「目を覚ましていなさい」をもう少し私たちにとって身

近にしてくれるのは今日の使徒書の日課にある「主イエス・キリストを身にまといなさい
」というパウロの勧めの言葉ではないかと思います。パウロもここで「闇の行いを脱ぎ捨
てて光の武具を身につけましょう」とすすめ、わたしたちに生じやすい「酒宴と酩酊、淫
乱と好色、争いと妬みを捨てて」と言ってそうではなくて「主イエス・キリストを身にま
といましょう」と勧めているのです。
 主イエス・キリストを身にまとうためには主イエス・キリストがどのような方でどのよ
うなことをしてくださったかをしっかりと知ることが必要です。だから毎年イエス・キリ
ストの歩みを知っていくことが日課として与えられており、これからはイエス・キリスト
がこの世に来られたことを覚えるときなのです。その初めが待降節なのです。これから有
祭期においてイエス・キリストの出来事を覚えていきましょう。その初めにイエス・キリ
ストがわたしたちと同じ人間となってこの世に来てくださったことを、覚えお祝いしてい
きましょう。