2022年11月20日「永遠の王キリスト」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ23:1~6、コロサイ1:11~20、ルカ23:33~43

 
 今日は聖霊降臨後最終主日で来週から待降節が始まります。何回か説明していますが教
会の暦には有祭期と無祭期と二つに分かれています。有祭期は神様がイエス・キリストを
通してしてくださったことを覚えるときで、待降節から聖霊降臨日までです。無祭期は聖
霊降臨後からその最終主日までで、教会の時とも信仰の時ともいわれています。ですから
今日は信仰の時の最終主日でその時のテーマは「永遠の王キリスト」です。これはわたし
が個人的に考えてつけたものではなく、教会暦の中のこの日のテーマなのです。すなわち
イエス・キリストこそわたしたちの信仰の中心であり、信仰の歩みの支え手、導き手であ
ることを覚えるときだというのです。今日の日課からそのことを聞いていきましょう。
 イエス・キリストがわたしたちの救い主であることは旧約の時代からもうすでに預言さ
れていると、わたしたちキリスト教会は理解しています。そして今日の旧約聖書の日課は
その一つです。人間の牧者の失敗の後、神さま自らが群れを導くこと、特に外国に連れて
いかれた人たちを連れ戻すことが示され、そのあと5節6節で救い主を送ることが預言され
ています。ここのところをキリスト教会ではイエス・キリストの預言であると理解してい
ます。そこでこの救い主を王(5節)とも呼んでいます。
使徒書のコロサイ書の日課は特にイエス様をたたえています。「御子は、見えない神の
姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。」と被造物とは違い神様と等し
い方であることを示し、さらに「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えない
ものも、王座も主権も、支配も権威も」といいそれがイエス・キリストのものであること
を伝えています。その理由のように「万物は御子において造られたからです。」と言いま
す。イエス・キリストこそ神に等しく、何ものにも支配されない方、すべてを支配されて
おられる方であることを示しています。支配というと私たちは少しこの世の出来事を思っ
ていい印象がないかもしれません。それが意味することはどのような力にも負けることは
なく、すべてをつかさどっておられることを意味しています。
 そして私たちとの関係において「御父は闇の力から救い出して、その愛するみ子の支配
下に移してくださいました。」といい、それがどのようになされたかを「わたしたちは、
この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」そしてそのことをさら
に「その十字架の血によって平和を打ち立て、万物をただ御子によって、ご自分と和解さ
せられました。」と述べています。
 この事を今日の福音書の日課から具体的な出来事としてみてみましょう。今日の日課は
十字架にかかられたところが与えられています。そして他の福音書にないルカだけにある
ものが与えられている個所です。それは[]がついている34節の「父よ、彼らをお赦しく
ださい。自分が何をしているのか知らないのです」というところと、42節一緒に十字架に
つけられている一人に「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
」と救いを宣言された個所です。初めの[]がついているのは聖書の初めの説明のところ
に「新約聖書においては、後代の加筆とみられているが、年代的には古く重要である箇所
を示す」と書かれています。ルカ福音書と同じ著者である使徒言行録に、ステファノの殉
教死のところでステファノが死の前に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と
執り成しの言葉を言っていますから、このルカ福音書の箇所も後代の加筆であったとして
もイエス様の心を表わしていると思います。イエス様が王となられたと言っても、この十

字架の死を通してなられたのです。イエス様が執り成しの祈りをされていても、十字架に
かかられたことをユダヤ人を代表する議員たちも、また力を代表する兵士たちも、また罪
を犯して十字架につけられた一人も、あざ笑っているのです。この世の普通の目ではあざ
笑い、侮辱するようなことを通して、十字架の死を通して王となられたことを特に心に置
くことが大切でしょう。そしてそこには赦しがあること、救いがあること、そのことが重
要だと思います。
 以前紹介したことがあります小川修という方、もう亡くなられていますが、この方がパ
ウロについて講義したものをルーテル教会の牧師たちが録音されたものを掘り起こして本
にしたもの、そのなかのローマ書の講義録を読んでいた時、興味深い示唆を得ました。ロ
ーマ書の5:12~21までの箇所のところ、そこの要約を表わしている15節の「一人の罪に
よって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キ
リストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」というところです。アダ
ムによって罪がわたしたちのところに入ってきたことと、イエス・キリストによって私た
ちがまことの命に生きるようにされたことを述べているのですが、私が興味を持ったのは
、わたしたちはアダムの出来事によって原罪の中におかれ、自分中心に生きる者となった
。そしてこれが支配しているので、わたしたちは争い、侮辱されれば反発し、侮辱し帰す
。そういう中に生きている。これがわたしたちの生きている現実だと思っていると思うの
ですが、小川先生の理解ではパウロがここで言いたいことは、イエス・キリストの贖いの
中に入れられ、このイエス様の命の中に生かされている。これこそがわたしたちの現実で
あるということだというのです。わたしたちがその現実に気付き、受け入れ、その命に生
きることが大切であるということです。わたしが特に教えられたことは、わたしたちの現
実はすでにイエス様の救いの中に入れられているということです。わたしたちは目に見え
る世界に支配され、罪の世界を現実と思い、苦しんだり、憎んだりしている。しかしそれ
はむしろ現実ではなく、バーチャルな世界で、イエス様の赦しと命の中にあるということ
が現実だということです。もうあるということに気付き、受け入れ生きることこれは大き
な転換であると思います。