2022年11月3日「守り導かれる主」中島共生牧師

礼拝説教

福音書箇所:ルカ21:5‐19
説教題『守り導かれる主』
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
  
先週はそれぞれの教会で全聖徒、召天者記念の礼拝が行われました。ちょうど、宇部教会では
記念室が新たに備えられ、この日与えられた神さまの恵みをより実感する機会となったのではな
いでしょうか。それぞれの教会で、この日は特に先に天に召された人々に思いを向け、祈りを合
わせた、そういう礼拝だったでしょう。一人ひとりに訪れる死は“小さな終末”と呼ばれることが
あります。与えられた命があり、その命を神さまが引き取りに来てくださる。今朝の日課のよう
に、この世界全体にまつわる大きな終末がある一方、私たちにとってより身近で、より強く実感
する“小さな終末”があるのもまた本当ではないでしょうか。大切な人の死に触れ、私たちは悲し
み、嘆き、涙を流します。もう何もかも失ったと思うような瞬間さえ、私たちの人生には訪れる
のです。しかし先週の礼拝で、聖壇、記念室に並べられた方々のお顔を見て、何もかも失ったわ
けではないことを、私たちは共に経験したのではないでしょうか。私たちが伴うことのできない
この先を、主が共に歩んでくださると希望を聞いたのではないでしょうか。終末の土台にあるの
は主の希望です。今朝はそのことを御言葉から聞いてゆきたいと思います。
本日の聖書箇所は、この世界にやがて訪れる大きな終末とも言えるでしょう。とても誤解され
やすい箇所だと思います。地震や戦争といった具体的な出来事が私たちの恐れを大きくします。
しかし、イエスさまの言葉をよく聞くと、「こういうことがまず起こるに決まっているが、世の
終わりはすぐには来ない(からである)。」と言っています。つまり、大きな自然災害や争いは起
こるが、そのことがすぐに世の終わり(終末)と結びつくわけではない、ということです。私たち
を恐れさせるそれら自然災害と合わせて、人々の恐れに付け込むような形で偽預言者、イエスの
名を語る者が現れると言います。「わたしがそれだ(8節)」とありますが、ここは少し特殊な言
葉で書かれており、神さまがご自分のことを言い表す時に用いられる言葉( εγω ειμι)、神さま特有
の自己紹介とでもいいましょうか、そういう言葉がギリシャ語本文には記されておりました。つ
まり、単にイエスさまの名を語るだけではなく、私たちが本当に『イエスさまかも知れない』と
思うような仕方で現れるということです。後ほど触れますが、『私がイエスだ』とか、『私はイ
エスの生まれ変わりだ』と言った言葉は偽りです。どれだけ力強い業を行おうとも、それは偽り
です。何故なら、この世界に神さまがお示しになられるしるしとは、私たちの目に『それだ!』
と思うような仕方や方法ではないのです。もうすぐ待降節がやって来ますが、天使は言いました
。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアで
ある。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。こ
れがあなたがたへのしるしである。(2:12)」誰の目にも、弱く、小さな救い主。それがこの
世界に与えられた救いのしるしでした。私たちが判断できるものではない、ということです。
イエスさまは世界に起こる出来事を語った後、弟子たちに起こる出来事について語ります。「
人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前
に引っ張って行く。」ここでは4つのことが言われています。誰かに①手を掛けられること、②
迫害されること、③引き渡されること、④引っ張って行かれること。そして実際にこれらの出来
事は弟子たちの身に降りかかることになります。使徒言行録を読むと、弟子たちが捕らえられ、
牢に入れられる場面が(何度も)記されています。牢だけでなく会堂に引き渡し、というのは、会
堂、つまり教会の中でさえ迫害され、そこから追放されるということです。イエスさまはそうな
る運命にある弟子たちを心配せず、むしろ「それはあなたがたにとって証しをする機会となる
。」と励ますのです。実際に、捕らえられた弟子たちは法廷でイエス・キリストについて証しを

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したのですが、では、弟子たちの証しを聞いて裁判官や民衆は考えを改めたでしょうか。一概に
、そうとは言えないと思います。中には弟子の証しを聞いて、イエスさまを信じた者もいたでし
ょう。しかし弟子たちは何度も捕まえられ、何度も迫害を受けるのです。たとえ相手が言い返せ
ないような受け答えをしようとも、理解してもらえないことがほとんどだったのです。そうなる
と、弟子たちが証しをする意味とはなんでしょうか。弟子たちの証しは、弟子たち自身のためで
ありました。何故なら、語るのは自分を通して語られる神さまだからです。今朝の箇所では「ど
んな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるから
である。」と言われています。言葉と知恵とを神さまが授けてくださる。だから、あなたは何も
心配しなくて良いのです。むしろ、私を通して語られる神さまの言葉を期待するように、弟子た
ち自身が、自らの口を通して語られる神さまの言葉を聞いたのです。先ほど『私がイエスだ』と
か、『私はイエスの生まれ変わりだ』と言った言葉は偽りと申しましたが、このことも関係して
いるでしょう。自分自身は神の言葉を聞く者であって、たとえそれが自分の口から語られたとし
ても、語ってくださるのは神さま、主体は神さまから動かないのです。
弟子たちの証しはその時、全ての人々には届かなかったかも知れませんが、決して意味の無い
ことではありませんでした。しかし、やはり行動の主体は神さまです。人知を超えて働かれる、
という出来事がありました。熱心なキリスト教徒迫害者だったパウロは、ある日天からの声を聞
きます。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか。(使徒言行録9:4)」この言葉に触れ、彼
はこれまでの歩みを180度変え、キリスト教徒、キリストを信じる者として歩んで行きます。
これまで自身が迫害していた人々と共に歩んで行ったのです。パウロも、弟子たちも、その時ど
れほど勇気を出したでしょうか。弟子たちは罠かも知れないと思ったでしょうし、パウロは会わ
せる顔がないと思えたでしょう。しかし、だからこそ、そういった人間的な思いや理解を越えて
神さまが働いたことを、弟子たち、パウロは知ることになったのです。今朝の日課で言われてい
る「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」という言葉は、我慢や辛抱強さを想像
します。もちろんそういう意味も含み得る言葉ですが、信念を持つ、という意味の強い言葉です
。イエスさまの言葉に拠り頼む、どこまでもこの姿勢を貫くことが、命を得ることになるのだと
いうことです。弟子たちも、パウロも、すぐにはお互いを理解することができなかったとしても
、『キリストを信じる』この一点において一致し、共に歩んでいったのではないでしょうか。
最後に、この世界で弟子たちを通して語られた神の言葉(証し)を、今私たちが聞いていること
を確認したいと思います。使徒言行録に出てくる最初期の弟子たちが伝え続けたこと、それは十
字架のイエスさまです。力強い業ではありません。弱く、痛々しい神の子の姿です。人々に「引
き渡された(12節)」イエスさまの背中を彼らは伝え続けました。この「引き渡す」という言葉
は、主にイエスさまの受難の出来事に際して用いられる言葉ですが、『任せる』という意味も含
む言葉です。ルカ福音書冒頭にこうあります。「最初から目撃してみ言葉のために働いた人々が
私たちに伝えたとおりに…。」『伝える』と、『引き渡す』は同じ言葉です。命を懸けて私たち
に救いの扉を開かれたイエスさまの証しを、弟子たちは命を懸けて伝え継いだのです。人間の命
には限りがあります。弟子たちが語り継いだ神の出来事、その行く末を彼らが見納めることはか
ないません。それでも、弟子たちは確信していたでしょう。神の言葉が潰えないことを。「髪の
毛一本も決してなくならない」と語るイエス・キリストの言葉が、一つも失われずに伝えられる
ことを。いずれ訪れるこの世界の終末、神さまが始められたこの世界を、神さまが完成なさるそ
の日まで、私たちも神さまの言葉に拠り頼みつつ歩んで行きましょう。
 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリス
ト・イエスにあって守るように。