2022年11月6日「主のもとでの祝福」藤井邦夫牧師

ダニエル7:1~3、15~18、エフェソ1:11~18、ルカ6:20~31

 今日は全聖徒主日の礼拝です。聖徒というと何か道徳的に優れて清い人たちを想像しま
すが、聖書で言う聖徒はそうではありません。そうではなくて、キリストの聖と義を転嫁
された人達のことを示しています。ですからイエス・キリストを信じて洗礼を受けた人た
ちのことを表わしています。今日の日課のエフェソ1:15にある「すべての聖なる者たち
を愛している」という表現は道徳的に清い人たちを愛しているという意味ではなく、キリ
ストを信じてその聖と義を受け取った人たちを愛しているという意味です。他の信徒の中
に目に見える部分だけではなく、キリストを見て、それを愛しているのです。
 全聖徒と言いますから、それは今生きている信仰の友のことを言っているだけではなく
、もう天に召された人達をも含めています。そして私たちが全聖徒の主日として礼拝を守
るとき、先に天に召された人たちのことを特に心においています。今日は記念堂の祝福式
をしましたが、記念堂の礼拝堂側は戸がなく開かれています。それはいつも先に召された
人達と共に礼拝にあずかることをも意味しています。そのことを今日は特に覚えて礼拝に
あずかっていきましょう。
 私たちの人生は、信仰者であれ、順風満帆というわけではありません。様々なことを経
験しながら歩んでいます。むしろ人生を振り返ってみたとき、また先に召された人達の歩
みを振り返った時、色々な困難に出会ったことのほうが多く、そのことを思い出すでしょ
う。今日の旧約聖書の日課を読んでみると、「4頭の大きな獣が現れ」とありますが、こ
れは4人の王のことを言っています。獣という表現からその王がどのような王であったか
が想像できます。権力により、支配し、苦しみを与える王です。現代においてもロシアの
プーチン大統領はウクライナの人たちにとってこのような権力者です。
 今日の福音書の日課は慰めに満ちたところですが、そこには「貧しい人々は、幸いであ
る」とか「今飢えている人々は、幸いである」とか「今泣いている人々は、幸いである」
という言葉があります。それはイエス様の時代においても「貧しい人々」「今飢えている
人々」「今泣いている人々が」存在していた、いえこう表現されているから、このような
人々がたくさん存在していたことが想像されるのです。先人の歩みにおいても、わたした
ち自身の歩みにおいても、この事を経験しているでしょう。貧しいとき、食べ物が十分に
ないとき、悲しみを経験したときがあったと思います。今は物質が豊かになっていますが
、わたしの子供のころはそうではありませんでした。また先人たちの晩年を考えると、ま
た私たちのこれからを考えると、体が弱り、衰え、困難が待っていることは想像が出来ま
す。
 聖書が伝えることは、この苦しみの現実だけではありません。むしろそれを超えたもの
が聖書がわたしたちに示していることです。旧約聖書を見ると「4頭の大きな獣」が出て
きますが、しかしそれがずっと支配するのではなく、「しかし、いと高きものの聖者らが
王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」という約束がそこにはあるのです。
 また福音書もこの世的にはマイナスの状況にある人たちを「幸いである」と言い、さら
に「神の国はあなたがたのものである」「あなたがたは満たされる」「あなたがたは笑う
ようになる」とイエス様の約束の言葉があります。イエス様がそのようにしてくださるこ
とが約束されているのです。
 使徒書のエフェソ書の日課を見ると、このような約束がとても強く示されています。「

御心のままにすべてのことを行われる方のご計画によって、前もって約束されたものの相
続者とされました」と言い、「約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わ
たしたちが御国を受け継ぐための保証であり」と言い、さらに「神の招きによってどのよ
うな希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝い
ているか悟らせてくださるように」と言っています。困難だけでなく、その先にある希望
と祝福が豊かに示されています。そしてその最たるものが「キリストを死者の中から復活
させ」という言葉です。
 私たちはこの約束の言葉を見、聞き、それによって生かされているのです。信仰者を聖
徒と呼ばれるように、その人に与えられたキリストの聖と義を見て、聖徒と呼ばれるよう
に、この約束の言葉と、神様がイエス・キリストにおいて成し遂げてくださったことを見
て、生かされるのです。そして神様はこの現実の世界で私たちが具体的に生きていかれる
ように、教会を与えられ、その教会こそ、キリストを頭とし、キリストが満ちておられる
場として私たちに与えられたのです。わたしはこの度体調を崩して主日礼拝を2回休みま
した。その時礼拝のライブ配信で共に礼拝にあずかったのです。その時本当に感じたので
す。具体的な信仰の友と、共に礼拝にあずかっている幸いを感じたのです。ライブ配信で
の礼拝でしたが、そこに具体的な信仰の友と、礼拝にあずかっていることの幸いを感じた
のです。
 最後に不幸であると言われたイエス様の言葉、更に日課として「敵を愛し」というとこ
ろまで与えられていること、そのことから聞いてみましょう。なぜここまで日課として与
えられているのか、多くの時間を使って聞き、考えてみました。富んでいること自体が不
幸であるなら、今の日本はほとんど不幸であると言えるでしょう。富そのものが悪いのか
。旧約では富むことは神様の祝福の結果であるとも言えます。富の問題でイエス様が、そ
して聖書が問題としていることは、その富で傲慢になり、紫の服を着た金持ちの姿のよう
に富を自分のものとしてだけ考えて、隣人に対して心が行かなくなっている姿です。また
、「敵を愛し」ということが現わしていることは、わたしたちへの勧めの言葉ではありま
すが、その姿はイエス様の姿を示しています。すなわちイエス様の命を生きるようにとの
勧めです。それなら富もまた、感謝の内に隣人とわかちあって生きることへの勧めではな
いかと理解しました。現実の世界の中に、キリストを見て、キリストの命に生かされるよ
うに願い歩んでいきましょう。