2022年10月30日「まことのものを受け取る信仰」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ31:31~34、ローマ3:19~28、ヨハネ8:31~36

 今日のエレミヤ書の箇所を見ると、神さまと人々、正確に言えばイスラエルの人々との
間の契約には2種類あることがわかります。一つは出エジプトの時にシナイ山で与えられ
た律法による契約です。どのように民が生きるべきか、神様の祝福にあずかるにはどのよ
うに歩むべきかを示されたものの上に立っている契約です。これを守れば祝福が、守らな
ければ呪いが来るというものの上にある契約です。この契約をイスラエルの民は守ること
が出来なかったと言われています。
 もう一つの契約は、新しい契約と言われ、将来与えられるものを示しているものです。
この契約の特徴は律法が人々の胸の中に授けられ、心に記されるというものです。心に記
されているので、他の人々に「主を知れ」という必要がないのです。他の人々も主を知っ
ているからです。律法は主を愛することと隣人を愛することでその本質が言い表されるも
のですから、新しい契約に入れられた人は、主を愛し、すなわち主を心から知り、そして
その愛のもとで隣人と生きていくものです。
 パウロの言葉で言えば初めの契約は文字によるもので、後の契約は霊によるものです。
パウロは文字は人を殺し、霊は人を生かすと言っています。
 では神様はなぜ初めの契約をされたのか。なぜ初めから新しい契約をされなかったのか
。昔の契約に失敗したイスラエルの長い歩みは無駄なものであったとのかという問いが出
るかもしれません。正確な回答は神さましかご存じないと思いますが、聖書から推察する
と、このイスラエルの長い歩みは神様の救いの歴史に対して必要なものであったと言える
と思います。そして、ローマ書の日課の3:20に「律法によっては、罪の自覚しか生じな
いのです。」という言葉は示唆を与えるものであるとおもいます。
 アダムとエバが罪を犯したとき、人間に生じたことは自己中心であると言われます。神
様のもとでいかされている自分ということから、自分を中心に置き、自分の力で生きよと
する姿です。自分が立派になるように。自分の行いで神様に認められるように。人々の中
でも自分が一番になるように。そういう在り方に人間が落ち込んでしまったと言えるでし
ょう。そこから争い、嫉妬、殺人が生じてしまいました。その人間に律法が示されたとき
、心の叫び、要求と、神様が示された律法に葛藤が生じました。パウロはローマ書7章で
、この葛藤を示しています。パウロはそこで「律法は霊的なものであると知っています
。」と言っています。すなわち律法は神様からのもので、良いものであることはわかって
いると言っているのです。しかし、かれは「わたしは、自分のしていることが分かりませ
ん。自分が望むことを実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」と言ってい
ます。すなわちよいものである律法の言うところをせず、律法が示すこととは反対の自分
の望むことをしていると言っているのです。だから、「わたしは何と惨めな人間なのでし
ょう。」と絶望の叫びをあげているのです。
 しかし大切なことはこの後にパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に
感謝します。」と感謝の言葉を述べていることです。人間にはこの歩みの時、すなわち、
古い契約による葛藤の時から、新しい契約を受け取る時があるのです。そしてそれは人に
よって違いますが、イスラエルの民が経験したような長い時が必要であるのです。その時
があって次の時があるのです。初めの契約があった後、新しい契約が来るのです。ルター
もそうですが、多くの信仰の先人はこのような歩みの経験をしているのです。自分中心か
ら神様中心に変えられるのには神様の時が必要なのです。この自分中心からの解放を今日
のローマ書の日課では次のように述べています。「では、人の誇りはどこにあるのか。そ

れは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない、
信仰の法則によってです。」
 今日のローマ書の中の大切な言葉に「すなわち、イエス・キリストを信じることにより
、信じる者すべてに与えられる神の義です。」神の義が与えられるということはわたした
ちの救いと言っていいでしょう。ここのところは新しくできた聖書協会共同訳では「神の
義はイエス・キリストの真実によって、信じる者すべてに現わされたのです。」とありま
す。ここでは「イエス・キリストを信じることにより」を「イエス・キリストの真実によ
り」としています。「信仰」は「真実」という意味も持っています。信仰というとついつ
い私たち人間の側のものと思ってしまいますが、この訳の特徴はわたしたちの側のもので
はなく、神様の側のもの、「イエス・キリストの真実」としたのです。救いの根本は神様
の側からくることを示しています。イエス・キリストの真実とは「神はこのキリストを立
て、その血によって信じる者のための罪を償う供え物となさいました。」ということであ
り、「それは神の恵みにより無償で義とされる」のです。神様がイエス・キリストを通し
てなされた贖いの業、しかも恵みとして、無償で与えられるものを、そうですと受け取る
者すべてに与えられるのです。恵みであり、無償なので、わたしたちが受け取る資格があ
るかとか、わたしたちがそれにふさわしく立派であるかとかは全く無関係です。すなわち
この救いの出来事はいつも付きまとっている「自分」というものからの解放でもあるので
す。このイエス・キリストの真実を受け取ることは、わたしたちの内にイエス様が住んで
くださることにもなるようです。この恵みを感謝して受け取りましょう。