2022年10月23日「胸を張る者と胸を打つ者」

「胸を張る者と胸を打つ者」(ルカ18:9~14)

  
  ルカ福音書だけのたとえ
 今年はずっとルカによる福音書を読んで来ましたが、この福音書にしかないいくつもの話を皆さん
は心に刻まれたことでしょう。10章には「善いサマリア人のたとえ」「マルタとマリア」の話があり
ましたし、15章には「放蕩息子のたとえ」があります。来週は宗教改革を覚えた礼拝になりますが、
福音書の箇所は19章の「徴税人ザアカイ」の話を選んでもよいことになっています。どれも私たちに
はとても馴染みな話です。これらはすべてルカによる福音書にしか書いていない話です。
そして先々週から読み続けているところもこの福音書にしかない教えです。でも先ほど挙げた様々
なたとえ話とやや異なります。「良いサマリアのたとえ」にしても「放蕩息子のたとえ」にしても、と
ても心を打つ話です。初めて読んだとしても、すっと心に入って来るような感動的な話ですが、しか
し16章の「不正な管理人のたとえ」などは、不正をした管理人をイエス様が褒めたと言うのですから
、少なくとも感動するような話ではありません。先週礼拝に出られた方は「人を人とも思わない裁判
官」の話を読まれたはずです。ここでもとんでもない裁判官が肯定されているかのようなたとえでし
た。
  真面目な信仰者だが…
今日もややそういう感じがします。神殿の参拝にやって来た二人の話でしたが、対極にいるような
二人です。一人はうぬぼれの強い男です。でも実に真面目な男です。週に二度も断食しているのです
から、少なくとも私よりとても熱心な信仰者です。不倫はしないし、不正もしない。献金も全収入の
十分の一を献げているのですから、立派なものです。でもそれがイエス様によってひっくり返される
のです。
ですから、どうなっているのか分からなくなるようなことがここしばらく書いてあります。どうし
て不正な管理人が褒められ、なぜ悪徳裁判官の行ったことが肯定されるのか。そして今日のように実
に真面目な信仰者の方が駄目だしされるのか、やや混乱するのです。でもだからこそ、このような話
から学び得ることがあるのではないかと私は思うのです。
  人の物差しとイエス様の物差し
私たちはそれぞれが自分の物差しを持っているわけですが、それは自分の目に見える世界から、あ
るいは自分が生きて来た中で体験したところで作り上げた物差しでしかないのです。「自分は正しい
生き方をしている」と言っていることは決して嘘ではないのですが、絶対的なものではないのです。
誰でも自分は正しい物差しと思っていたとしても、しかしそれは本当の物差しではない。それが今日
の教えの結論であるし、聖書はいつもそのことを教えているように思うのです。
その絶対的な、本当の物差しという物が示されているのがイエス様の教えだと私は思います。自分
の物差しとイエス様の物差しと言うものを比べて、いつも違うということではないでしょう。先ほど
言いました「良いサマリア人のたとえ」や「放蕩息子のたとえ」などは誰もが納得します。自分もそ
う思うと、イエス様の教えとぴったい合うのです。自分でも「これは本当に大切なことだ」と感じま
すから、自分とイエス様の物差しに違いを感じることはないのです。
でも、時々どうも首を捻り、心の底から納得できないようなことが書かれてある。多分今日もそう
です。どうして真面目人間が叱られ、他人のお金をくすねていた罪人が義とされたのか、普通に考え
ればおかしなことです。でも、そういう不可解な話だからこそ、私たちは注意して読んで行かなけれ
ばならないのです。
前置きが長くなりましたので、それでは今日のみ言葉に入って行きましょう。
  この世の物差しによれば
二人の男が出て来ました。ファリサイ派に属する人と徴税人です。どちらが真面目て、模範的な生
活をしていたかは論を俟ちません。私たちはこのような話を聖書の世界で読みますから、徴税人にそ
れほどの嫌悪感を持たないように感じます。でも今で言えば、税務署に努めている職員が、税金額を

2

操作して勝手に釣り上げて、その分を自分の懐に入れていたとすれば、大変な問題になるはずです。
とんでもないと、きっと罪人ならぬ「罪人」として逮捕されるはずです。私たちも怒るはずです。
片や、ファリサイ派の人は不正なこと、不品行なことは何もしていない。さらに信仰深い行いをき
ちんとしているのですから、罪人とはもっとも遠い人です。ですから二人を比べれば、どちらが正し
い人で、どちらが罪人かははっきりとしているはずです。
でもそれはこの世の物差しの秤であって、イエス様の物差しとはまったく異なることになるわけで
す。
 こなれ過ぎる言葉
9節に「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたと
えを話された」とありました。特に「自分は正しい人間だとうぬぼれて」という言葉がとても重要で
すから、少し立ち止まって考えてみたいと思います。
この言葉はよく練られた言葉に訳されていますから文句のつけようはないのですが、でも「こなれ
た言葉」というのは別の問題をあるのです。「こなれる」という言葉の意味を調べましたら「角がと
れること」だと、あるいは「動きが収まって、落ち着いた状態になること」だと書いてありました。
角がとれてまるくなっている。これは良い意味に使われますが、別の見方すればひっかるものがない
のです。落ち着きすぎて、言葉の動きとが乏しいとか、言葉のダイナミックさが失われて行くことが
あるのです。ここの言葉が良い例です。
元もとの言葉をあえてぎこちなく訳すと「自分たち自身に向って、自分たちは正しい人間であると
確信していた」となるようです。こんな訳が聖書に書いてある分かり難いですから、そんなぎこちな
い訳にはしないのですが、でもこのようにあえて訳すとひっかるものがあります。「うぬぼれて」と
いうのは、「自分たちが自分自身に向って確信する」というのですから、自分たちでひとり芝居をし
ているようなものです。自分で、自分自身に言い聞かすように「正しい人間だ」と確信したのです。
そう自分で決めたということです。こういうことを「自己義認」と言います。
 ファリサイ派の問題
ですから、ファリサイ派の人たちの一番の問題が次第に見えて来ないでしょうか。胸を張って、「
自分たちは正しい人間だ」と勝手に自分たちで信じ切っていた人たちだということです。その結果ど
うなったのでしょうか。他人を見下したのです。馬鹿にし、軽蔑し、差別することになりました。こ
れが問題なわけです。とんでもないし、威張っていることに不快感を覚えるのです。
でも私はもうひとつの問題をしっかり見なければならないと思います。本人たちは胸を張って威張
り、同じ神殿にいる、つまり同じ神様の前に立っている徴税人のことを「可哀そうなやつだな」くら
いに思っていたのですが、しかし本当に可哀そうなのはどっちなのか、これを見なければならないの
です。
  可哀そうなのはどちらか
では何が可哀そうなのでしょうか。どんなことが気の毒に思えて来るのでしょうか。それは、ファ
リサイ派の男が神殿で心の中で祈った言葉がそれを教えています。「わたしはほかの人たちのように
、あの徴税人たちのように、奪い取ることも不正もしていません。週に二度も断食し、十分の一の献
金をしています」と呟きました。悪いことは何もしていない。断食は週二回もして、献金もちゃんと
している。ここに書いてあるだけでも、5つの善い行いを数えることができます。
これを「心の中で祈った」と書いてありますが、これも元もとの言葉をあえてぎこちなく訳すと「
自分自身と共に祈った」となります。ある人は「自分自身のために祈った」と訳しています。ですか
ら先ほど言ったこととつながります。「自分自身に言い聞かすように祈った」という意味ではないか
と私は考えます。
俺はあれもやった、これもやったと自分に言い聞かしたのです。自己義認する人は、自分で自分の
ことを正しい人間だと確信しようとするわけです。本当は自信も確信もないから、いつも自分に言い
聞かせようとするのです。必ずこうなるのです。
例えば何かの試験があるとする。自信がないときほど、自分に言い聞かせようとする。あれもやっ
た。これも準備した。だから大丈夫だ、安心しろ、落ち着け、という具合に、やったことを数え上げ

3

るこのです。受験やその他の試験ならばしょっちゅうあるわけではありませんが、そういうこともあ
ってもいいでしょう。でも、このファリサイ派の人はきっと毎日毎日、自分に言い聞かせる日々だっ
たのではないでしょうか。実に気の毒なことではないでしょうか。ですから、このファリサイ派の人
こそが憐れみを受けるべき人ではなかったかと私は思うのです。
  サルの子信仰と猫の子信仰
私はこの話を読みながら、学生時代に宇部教会に通い始めたころのことを懐かしく思い起こしまし
た。もう50年近く昔のことです。それはクリスマスの時期に行われた「特別伝道集会」のことです。
夜の会でしたが、講師は岸千年先生でした。ご存じの方もいらっしゃるでしょう。もう天に召されま
したが、その時は神学校の校長を退任されていたころです。そこでとても有名は「サルの子信仰と猫
の子信仰」の話をされました。
講演が終わって、質問の時間になりました。始めて教会に来られた方が質問されたのです。山ノ内
正俊先生の伴侶の初枝さんがその時いらして、初枝さんの友だちの方が質問されたのです。「どうし
たら先生のような信仰を持つことができるのですか」と。そこで言われたのは、「自分で信仰を掴も
としても駄目ですよ」ということでした。「自分の手で掴もうとしないで、むしろ手を放して神様に
委ねればいいんですよ」という答えでした。そのたとえとして、サルの子はお母さんを離れないよう
に、必死で自分の手で掴んでいる。でもそれでは疲れるし、どこかで挫折する。しかし猫の子をご覧
なさい。どこかへ行っても親猫が首を噛んで、安全なところに連れて行ってくれるでしょう。だから
安心している。これがルターという人が発見した信仰ですよ、と言われたのです。私も深く納得した
ことを記憶していますし、だから今でも鮮明に憶えているのです。自分の手で信仰を掴み取ることが
大事だと思っていたからです。むしろ手を離すことが大事である。この世の常識や考えていることと
全く違う、そういう異なった物差しがあることを知り始めた時でした。
サルの子信仰は自己義認の道です。あれもやった、これもやったと言って、自分の正しさを積み上
げようとする。そこで自分の正しさを確認するのです。でも人間は弱い存在ですから、どこかで疲れ
、ひずみが生じ、辻褄が合わなくなる。人を見下していることの愚かさにもまったく気づかないので
す。
それに対して「他者義認」がある。それはキリストによる義認であり、神様から義としていただく
義認です。今日の最後にも「義とされて帰ったのは」という言葉がありました。自分が自分を「義と
する」のではなくて、神様に「義とされる」義認です。だから、ただ一言「神様、罪人のわたしを憐
れんでください」と胸を打ちながら神様に祈るのです。それだけでいい。いやそれこそがもっとも重
要なことであると信じるのです。この祈りを真心から唱え、神様は確かに聞いてくださることを心か
ら信頼するのです。そのような信仰の歩みをする者に神様のまことの平安と祝福があるように、お祈
りいたします。