2022年10月16日「祈りの力」代読説教(原稿:中島共生牧師)

礼拝説教

福音書箇所:ルカ 18:1‐8
説教題『祈りの力』
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
イエスさまは弟子たちに絶えず祈らねばならないことを伝えるにあたって、譬えをお話しされました。『ある
ところに、神を畏れず、人を人とも思わない裁判官がいた。この裁判官のもとに、一人のやもめがやってきた。
彼女は裁判を開くよう裁判官に訴えた。しかし、裁判官は取り合おうとしなかった。しかし、やもめが一向に
諦めないので、やがて裁判官はいっそのこと彼女の訴えを聞いた方が自分にとって都合が良いと思うよう
になった。』というものです。イエスさまの話された譬えに込められた『祈りとは何か』このことを、本日は共
に聞いてまいりたいと思います。
教会では礼拝の中でも、また様々な集会の際にも祈ります。感謝の祈りもあれば、病の癒しを求める祈り、
旅人の安全を願う祈りなど、たくさんの祈りがあります。そのように祈りには形式、こういう祈りでなければな
らないというものはありませんが、しかし神に向かわない祈りはありません。『父なる神様』、『恵みの主よ』、
『イエス・キリストの父なる神よ』など、祈りの始めは父なる神様への呼びかけから始まります。決して誰か個
人を指して『〇〇県知事さま』、『内閣総理大臣さま』などとならないのは、この祈りを聞いてくださるのも、
叶えてくださるのも、父なる神様を置いて他にないからです。これは当たり前に思えて、実はとても大切なこ
とではないでしょうか。そしてこの信頼、神様なら必ずや祈りを聞き、祈りを叶えてくださると言う確信が無け
れば、私たちはやがて祈ることに疲れ、希望を失ってしまうでしょう。祈ったって叶えられないならば、無駄だ
と思い、祈ろうとする気すら起きなくなってしまうのでしょう。
祈りが決して無駄ではないことを、イエスさまはその公生涯の中で度々教えているように思います。聖書
の中で、弟子たちの祈った数(23度)と同じだけイエスさまも祈っている(22度)のです。イエスさまは何度も
父なる神様に祈りました。神様と同じ身分でありながら、祈ることに“意味”を見出していたということです。
十字架に向かう直前、ゲツセマネの園(ルカではオリーブ山)でイエスさまは脂汗を流しながら祈りました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行っ
てください。(ルカ22:42)」イエスさまが十字架にお掛かりになられることは、イエスさま自身が何度も弟子
たちに語っています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け…排斥されて殺され、三日目に復活することになっ
ている(ルカ9:22)」、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている(ルカ9:44)」、「彼らは人の子を、鞭
打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する(ルカ18:33)」。その道は避けて通れない。何故なら、
神の御心なのだから。では、なぜイエスさまは苦しみもだえるほどに、『杯を取りのぞいてください』と祈った
のでしょうか。変えられない未来を変えたいと願ったのでしょうか。そうではないでしょう。イエスさまの祈りに
込められた意味、思い、それは、祈りとは神様が近くにいることを信頼する行為だということです。自分が祈
って、その先どうなったかを視線の内に置きません。私がどのような状況に在ろうと、これからどうなってゆこ
うと、祈る相手が与えられていること、他の誰でもないこの世界を創られた神さまが私の祈りを聞いてくださ
ることに全てを懸けてゆくのです。叶えられるから祈る、のではないのです。自分には祈る存在が与えられて
いる、ここから祈ることを始めてゆくのです。