2022年10月9日「いやされた先に」藤井邦夫牧師

礼拝説教

列王記下5:1~3,7~15、Ⅱテモテ2:8~15、ルカ17:11~19

 本日の旧約聖書の箇所はエリシャの働き、神様から受けた力による奇跡の出来事の中のものです。外国の地アラムにナアマンと言う軍司令官がいました。彼は重い皮膚病にかかっていました。ナアマンのところにイスラエルから奴隷として連れてこられた少女がいました。その少女がサマリアの預言者なら(エリシャのことですが)その病気を癒すことができるとナアマンの妻に言います。ナアマンは王のところに行き、サマリアへ行くことの許可を願い出ます。王はイスラエルの王に手紙を書いてナアマンに持たせてやります。ナアマンはたくさんの贈り物をもって、イスラエルの王のところに行きます。イスラエルの王は重い皮膚病を癒してくれとの手紙を見て、不可能な難題を突き付けて、自分に言いがかりをつけていると思います。当時アラムは力の強い国でしたから、イスラエルの王は素直に聞くことができなかったのです。わたしたちの心に何かあると、物事を素直に理解できないものであることがよく分かります。預言者エリシャはこの王の態度を聞いて、自分のところにナアマンを送るようにと言います。ナアマンはエリシャのところに行きます。するとエリシャは自分で出て来ないで、使いのものがヨルダン川に行って7度身を洗うようにと言います。司令官として誇りのあるナアマンは腹を立てます。エリシャが自分で出て来て言わないこと、そして簡単なヨルダン川で7度身を洗うこと、に腹を立てるのです。アラムにはヨルダン川よりはるかに立派な川があるのです。怒って帰ろうとするのです。誇りのある物が物事を受け取ることがいかに困難かがよく分かります。しかし、位の低い家来がナアマンをなだめます。その言葉を聞いてヨルダン川に行って7度身を洗ったら、ナアマンの重い皮膚病は癒されたのです。

 今日の福音書の日課も重い皮膚病を患っている人たちの出来事です。そしてそこには旧約聖書と少し違った面が出てきます。それは今日の説教題にもしました「いやされた先に」すなわち感謝の心の大切さです。福音書には10人の重い皮膚病を患っている人たちが出て来ます。場所はエルサレムに上る途中のサマリアとガリラヤの間であると言います。位置的にはなかなか分かりにくいのですが、ここで言いたいことは10人の中にサマリア人が含まれていたということです。イエス様がサマリア人の事を外国人と言われましたように、サマリアはもともと同じ民族のイスラエル人の住んでいるところでしたが、捕囚のころに、サマリアには外国人が移り住んでそこに居た人たちは純粋なイスラエル人ではなかったので、捕囚後ユダの人達はサマリア人と仲が悪く、異邦人扱いしていたのです。10人はイエス様のうわさを聞いていたのでしょう、イエス様に助けを求めます。イエス様はただ「祭司のところに行って体を見せなさい」と言われます。それは皮膚病が癒されたかどうかは祭司が判断することになっていたからです。ここで興味深いのは10人ともこの言葉を聞いて祭司のところに行ったのです。まだ体が癒されたという兆候を経験していないのにです。重い皮膚病はとても困難を人に与えるものです。社会的にも宗教的にも排除された生活をしなければなりません。苦しみが大きかったので、このイエス様の言葉に希望を持って出かけたのでしょう。すると行く途中でいやされました。今日の日課の大切な事はここまでのことではありません。祭司のところに行って癒されたことを確認した後、大喜びをして、神様を讃美しながらイエス様のもとに戻ってきたのはたった独りであったということ、しかもそれは神様の民と自負していたユダヤ人ではなく、サマリア人でした。彼はイエス様の所に帰ってきてその足元にひれ伏し感謝したのです。お分かりになるように、福音書の大切なところはここのところです。他の9人の人達はイエス様の言葉に希望をもって、祭司のところに行きました。この時には何らかの信仰が与えられていたと言えるでしょう。しかし、祭司のところに行って癒されたことを知ると、重い皮膚病からの解放と喜びによって、イエス様への思いは消え去っていました。自分の方にのみ心が向いていたのです。しかし一人のサマリア人は、祭司のところに行って癒されたことを確認すると、その事がイエス様を通して神様がして下さったことであることに心が行きました。それゆえに、イエス様のもとに行き感謝の心で、イエス様の足もとにひれ伏したのです。その彼は最も大切なものをいただきました。イエス様は「あなたの信仰があなたを救った。」と彼に言われました。そうですこれから生きる上で最も大切なもの信仰を彼は与えられたのです。彼は神様とイエス様への信仰のもとにみちびかれてこれから生きていくことでしょう。

 テサロニケの信徒への第1の手紙5:16に有名な次のような句があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリストイエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」感謝するとは感謝の元のものであれ出来事であれ、それが単に自分の利益であると感じることだけではありません。それが生じたところにそれを生じさせてくださった方があることを見ることと、その方につながり続けることでもあります。わたしたちがイエス様の十字架の死と復活を信じ、洗礼を受け、その約束は確かなものであること受け取り、わたしたちのうちに生じたことを感謝の心で受け取るなら、わたしたちはイエス様と結ばれて、信仰生活を歩む者となるのです。いやされた先に何が生じるか。いやされたことを喜び、癒されたことへの感謝を忘れることは、それはいやされた方イエス様や神様を忘れることです。感謝が生じることはいやしそのものだけでなくいやしてくださった方に心を向けることです。いやしてくださった方とつながって生き続けるものとされることです。