2022年10月2日「種一粒ほどの信仰」

礼拝説教

ハバクク1:,1~4、2:1~4、Ⅱテモテ1:1~14、ルカ17:5~10

 今日の福音書の日課を見ると、何かむつかしさを覚えますし、後半の僕に対するたとえ
話とどのような関連があるのかとも思わされます。ルカ福音書は、このように二つのもの
をつなげる箇所が多くあるのです。ほかの福音書では連続性のある話になっていますが、
ルカ福音書では連続性を感じられないように話が置かれています。この1週間は体調が悪
く一日中うとうとうとうとしている状態でした。その関係でここに関する註解書をしっか
りと調べることが出来ませんでした。ですから私がうとうとしながら黙想して与えられた
ことをお伝えしたいと思います。
まず、信仰を増してくださいという使徒たちの願いに対して、「からし種一粒の信仰が
あれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』といっても、言うことを聞くであ
ろう」というイエス様の言葉です。からし種というのは最も小さいものを表わすものとし
て用いられています。普通は不可能に思えることをたとえに出して言われているのです。
ここで注目されるのは「信仰を増してください」との使徒たちの願いの言葉に対して、知
りうるものの中で最も小さいからし種ほどの信仰をイエス様は出されました。これはどん
なことであろうかと思いました。「信仰を増してください」これはわたしたちの普通の考
えです。わたしたちは、特にまじめな人はこのような願いを持つでしょう。このような中
には何かの病気や障害を持っていた時、神様にいやしてくださいという祈りをし、癒され
ないとき、もっと強い信仰を与えてくださいと願う、そのような信仰に当てはまります。
自分の信仰が足らないからいやしてもらえないのだという思いです。それに対してイエス
様は最も小さいからし種の信仰があれば不可能に思えることもできると言われているので
す。ここから考えられることは信仰が強いか弱いかが問題ではなくて信仰があるかないか
が問題のように思えます。
次に僕のたとえを見てみましょう。この僕のたとえは現在の私たちにとって身近に感じ
るものではありません。僕、奴隷という関係は今の私たちには縁のないものでしょう。し
かし想像をすることはできます。畑仕事から疲れて帰ってきた僕。普通なら疲れた体を一
休みして食事をして一日を終わりとしようと考えるところです。しかし、僕ですから主人
に夕食を用意してくれるように、更に身支度して食事の給仕をするようにと言われ、その
ようにします。さらにイエス様は言われます。これらのことをしたからと言って主人は僕
に感謝するだろうか。しなければならないことをしただけだというのです。映画などで見
ると西欧や昔の中近東のことを思うと、畑仕事をする人と、料理や給仕をする人は別々で
あることが多いと思います。王様などはそうでしょうが、普通の人の僕はすべてをしてい
たのかもしれません。過酷なものだと思います。
ではここでは何を言おうとしているのか、初めのからし種一粒との結びつきはどんな形
であるのでしょうか。以前宇部に帰ってきて間もなく、栁井から下関まで徒歩で歩く教会
巡りを計画しました。その時大きな発見がありました。それは同じ距離を歩くのでも、遠
くまで歩く時の一部分であるか、その距離がすべてであるかによって感じ方は全然違うと
いうことです。同じ距離を歩く時、遠くまで歩くという目標の中の一部であるとき、遠く
を目指しているので、疲れはするのですが、それでも大変と思わないで、その距離を歩く
ことが出来ます。同じ距離でもその距離自身が目的の時、その間疲れた、えらいと色々思
いながら、もう少しだから頑張ろうと思い、歩くのです。同じ距離なのに、遠くまでが目
的の時、あの山のふもとまで歩くのは疲れたとしてもそんなに大変と思わずに山のふもと

まで歩くことが出来ますが、山のふもとまでが目的の時は、その距離を大変だ、大変だと
思いながら歩いてしまいます。これで何を言いたいかというと、僕ということを完全に受
け入れていれば、畑仕事も、料理も、給仕も、体は疲れているけれど、心の中で不平を言
わずに、自分はするべきことをしたに過ぎないと思えると思います。しかし、僕であるこ
とをいやいや、何らかの形でさせられたら、疲れ以上に不満があふれ出てくると思います
。すなわちここでの問題は受け入れているかどうかが問題で、初めのからし種のたとえで
はあるかどうかが問題です。ここに共通点があるのではないかと思わされます。
信仰は神様が真実で、その神様を主として私たちは生かされているそのもとに立ってい
ることでしょう。その主という神さまを受け入れて歩むことが信仰でしょう。全てを作ら
れ、真実に治められている方、しかも独り子イエス様を遣わして私たちを真の命に導いて
くださった方を信じるということは、自分の思いによって生きるのではなく、神さまのみ
こころに従って生きようとするのですから、神さまのみこころを聞き、そしてそれは必ず
実現すると受け取るでしょう。また逆につらい現実があっても神様の御手の中にあるから
、そしてその神様は真実で私たちを真の命に導かれる方であるから、それを受け入れて歩
む者とされるのではないでしょうか。信仰は自分の思いが成り立つのではなく、神さまの
みこころが行われていくことを信じ受け入れていくことでしょう。