2022年9月25日「隣人への気付き」藤井邦夫牧師

礼拝説教

アモス6:,1、4~7、Ⅰテモテ6:6~19、ルカ16:19~31

 今日の福音書の日課のイエス様のたとえ話を見ると、重要なことを思わされます。富ん
でいる人の傲慢さと、人が気付くことはなかなか困難であるということです。金持ちの姿
と貧乏人のラザロの姿が、そしてその関係が興味深く織り込まれています。
金持ちは「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日贅沢に遊び暮らしていた」と記され
ています。この表現で金持ちの姿がよくわかります。贅沢な服を着、自分を楽しませるこ
とにのみ心が行っています。一方貧乏人のラザロは金持ちの門前にいて、金持ちの家の食
卓から落ちるものを食べたいと思っていました。さらに犬がやってきて彼のできものの体
をなめたということが伝えられています。犬という存在は今の私たちが感じることと違っ
て、旧約にも犬が食らうという惨めな最期を表わすものとしてこの表現がよく出てきます
。この表現は惨めさの大きさを伝えているものです。
 では二人の関係はどうかというと、金持ちはラザロを生前無視していただろうことがほ
のめかされています。「ラザロが金持ちの食卓から落ちるもので腹を満たしたいものだと
思っていた」この表現から見れば、金持ちは助けを求めているラザロを無視していただろ
うことが推測されます。金持ちがラザロを気遣っていたら、犬にできものをなめられてい
るラザロを気遣っていたらこのような表現なされないでしょう。では金持ちはラザロのこ
とを全然知らなかったかというとそうではないことが後のところでよくわかります。二人
が死んで立場が逆転したとき、金持ちは喉の渇きに苦しんでアブラハムに助けを求めるの
に、ラザロを使おうとしていますし、その後もラザロを兄弟のところに送るように頼んで
います。金持ちは生前ラザロを無視していただろうに、今は召使のように自分のために使
おうとしているのです。この金持ちの自分中心な傲慢な姿がそこによく示されていると思
います。
 先日フェイスブックを見ていたら、故エリザベス女王が属国としていた国々に一度も謝
ることはなかったという表題のものがありました。わたしは国王とか天皇とか、そのよう
な制度があることに反対な気持ちを持っています。このようなものがあるから、人はしっ
かり自分の足で立てないし、すぐに力や権威に頼ってしまう。わたしに取っては神様への
信仰で十分であると思っているからです。今回のエリザベス女王の葬儀についての報道に
は関心がなく見ていません。ちょっと極端な感じになるので説教に載せるかどうか迷った
のですが、わたしの命もそう長くないので大切と思えることは載せようと思いました。先
ほどのフェイスブックの記事はハワード・フレンチという人のものでした。彼はアフリカ
系アメリカ人だそうで、でも見た目は白人の姿格好をしています。最近の著書は「中国第
二の大陸 アフリカ」というものです。わたしはこの人に触れるのは初めてで本も読んで
いないので、この人について深く語ることはできませんが、フェイスブックに載っていた
ことには深くうなずかされたのです。その内容は故エリザベス女王は70年の在位の間、色
々イギリスの関係の国を回ったけれど、過去のその国の人々を苦しめたことにたいして謝
ることは一度もなかったということです。西欧諸国は植民地主義の政策の下にアフリカや
東南アジアの国を植民地として、自分の国を富ませてきました。その国の人々を奴隷のよ
うに使って自分の国の利益をあげてきたのです。日本もそれに後れを取らないように歩ん
だ結果が第2次世界大戦の敗北でした。植民地主義の下に歩んできた西欧諸国や日本がこ
の歩みを懺悔しない限り、本当の平和は来ないと思います。民主主義と法の下の歩みは大
切なことでこれからもそれを守っていかなければなりません。しかしそれも完全な制度で
はないのです。民主主義のもとにトランプ前大統領のような人が生まれてきたのです。ま
た勝った国の人たちが法を作りますから、ロシアが国連の常任理事国として拒否権を使っ

て、動きが取れなくしています。
 故エリザベス女王がその気品や、権威によって多くの人を励ましてきたでしょう。しか
し同時に、痛みを与えた国々の人の前にひざまずいて赦しを請うことがあったらもっと素
晴らしいものを世界に与えたことでしょう。
 少し私たちの日常生活の方に戻ってみましょう。今回は厚狭教会、宇部教会両方の説教
になっています。厚狭教会を私は暖かい教会だと思っています。宇部教会も会員同士で電
話をしたり、はがきを書いたりでお互いの交わりを大切にしています。この事をとてもう
れしく思っています。わたしたちは主の導きのもとに信仰生活を歩んでいくものですから
、わたしたちの今日のテーマに関してどのようなことが大切なことでしょうか。わたしは
すべてのことに通じていると思いますが、神様の前にへりくだらされることであると思い
ます。人の前だとそこには嘘が出やすいのですが、すべてをご存じの神様の前なら、より
真実が現れやすいと思います。神様の前にへりくだらされた時、そこには神様の愛もまた
、身近なものとなります。人への気付きもより敏感なものとなりでしょう。
 神様の前にへりくだりというとどんなことという質問が出てくるでしょう。わたしたち
の本当のへりくだりは自分の力ではなく神様の側からの働きによって生じるものです。神
様にどうぞ自分をあなたの僕としてくださいとの祈りのもとに立つとき、神様からの何ら
かの示しがあることに気付くでしょう。そのときそれを受け入れていくことが大切なこと
だと思います。