2022年9月11日「あなたを見つけた」中島共生牧師

礼拝説教

福音書箇所:ルカ 15:1‐10
説教題『あなたを見つけた』
私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。
6月から歩み始めた聖霊降臨後の日々も、折り返しを迎えました。聖霊降臨後の日課は毎年一つの福音
書を集中して読み進めてゆきます。今年、ルカ福音書を私たちは読んでいます。ルカ福音書の冒頭にはこう
あります。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわた
したちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオ
フィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するの
がよいと思いました。」すべての事を初めから詳しく調べ、順序正しく書くこと、これがルカ福音書の一つの
中心事です。つまり、ルカ福音書を記した者がどんなに書きたいと思った事柄、記事であっても、それを実際
に見て、聞いた者の証言でなければ書くわけにはいかないということです。けれども、だからと言ってルカ福
音書が正しく、その他の福音書が間違っているということはないでしょう。ルカ福音書に記されている事柄も、
時には様々な判断をして、蓋然性が高い方を選択していったでしょう。だからこそ、それぞれの福音書には同
じ出来事が記されていながらも、ところどころ表現の違うものがあるのです。どの福音書記者も、それぞれが
正しく聞いたことを福音書(良き報せ)として書き記したのです。
どうしてこんな話をしたのかと言うと、今朝の日課はマタイ福音書(18章)にも同じ譬えが記されているの
ですが、その表現が異なるのです。マタイ福音書の該当箇所を読んでみましょう。「ある人が羊を百匹持っ
ていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろ
うか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろ
う。」ルカ福音書に記される“見失った羊”の譬えと、概要は同じです。100匹の羊を飼う者(羊飼い)がいて、
その内の1匹がいなくなってしまった。羊飼いは99匹を残して1匹を探しに行き、見つけたら大喜びで連れ
帰るというものです。しかしマタイ福音書では、「一匹が迷い出た」とありますが、ルカ福音書には、「その一
匹を見失った」とあるのです。客観的事実は同じでしょう。100匹の羊がいて、1匹だけがその場からいなく
なってしまったのです。しかしルカ福音書で語られるイエスさまの言葉は、この1匹は迷い出たとは言わず、
「見失った」と言うです。これは一体、どういうことでしょうか。
そのことを理解するのに有益であると思えるのが、この譬えの後に続く譬えです。ルカ福音書15章は“失
った三つの譬え”と呼ばれることがあります。羊の譬えに続き、無くした銀貨の譬え、そして放蕩息子の譬え
が語られます。福音書記者ルカは、なんとなくこの順番に譬えを置いたでしょうか。そうではないように思い
ます。この譬えは「順序正しく」書かれているのではないでしょうか。まず先に、見失った羊の譬えをイエスさ
まは語り、その後に無くした銀貨の譬え、放蕩息子の譬えを話されたのです。どうしてか。今日はそのことを
共に聞いてゆきたいと思います。

見失った羊、もし皆さんが100匹の羊を所有する羊飼いであったならばどうでしょうか。99匹数え上げ、
1匹足りない。私なら、自分が数え間違えたと思うかも知れません。しかし本物の羊飼いは1匹が確かにい
なくなっていることを、周りを見渡して知るのです。100匹の羊1匹1匹を見分け、どの羊がいて、どの羊がい
なくなったのかが分かっていたのではないでしょうか。いなくなった1匹は、1/100の羊ではないのです。羊
飼いにとっては、どれも大切なたった1匹の羊なのです。そして羊飼いは99匹を野原に残し、迷わず探しに
行きます。この羊が自ら迷い出てしまったのか、それとも羊飼いの不注意ではぐれてしまったのかは書かれ
ません。私たちは、物事の過程が違えば見る目が変わります。たとえば、宿題を忘れてきた子がいたならば
『どうしてやって来なかったの』と思うでしょう。けれどそれがたとえば病気や、何か理由があったならば、宿
題を忘れたことはそれほど気にならないのではないでしょうか。むしろ、相手を気遣い、心配するのではない
でしょうか。しかし、羊飼いにとって、羊がいなくなってしまった理由は関係ありませんでした。羊の不注意だ
ろうと、自分の不注意だろうと、今ここに羊がいない、そのことだけに心を注いでゆきます。そして探し出した
ならば、担いでその羊を連れ帰るのです。担ぐ、とありますから、羊は自分の力では歩けなかったのでしょう。
怪我をしていたのか、家に帰ろうと必死になり疲れ果てていたのか、それは分かりませんが、自分の足でこ
れまで歩んできた羊を担いで一緒に帰って来るのです。
イエスさまはこの譬えを、人々の前で語りました。そこには、律法学者やファリサイ派の人々もいました。彼
らは、イエスさまの周りにどんどん集まってくる罪人や徴税人とされる人たちを見て、こう思ったでしょう。『あ
なたは罪人や徴税人の仲間なのか。彼らがどういう者か分かっているのか。神さまとの約束を守れずに生
きてきた人々だぞ。』だからこそ、イエスさまは律法学者やファリサイ派の人々、罪人や徴税人と呼ばれる人
たちの前でこの譬えを語るのです。自分が正しいと思っている者にとって、この譬えは理不尽です。何故なら、
自分は迷い出ることの無い、見失われることの無い99匹だからです。どうして神様は私を置いて行ってしま
うのか。言いつけを守り、従ってきたじゃないか。しかし、罪人と呼ばれ、徴税人としてしか生きられない人々
にとって、この譬えは救いです。こんな自分を見つけに来てくれる人がいる。誰かと比較してではなくて、私を
私として見つめ、抱き抱えてくださるかたがいる。『あなたを見つけた』と言ってくださるかたがいる。神に気
付く、これが悔い改めの一歩目です。しかし、これまでの人生が無かったことになるのではありません。これ
まで自分が犯してきた罪があるならば、そのことも受け止めて歩んでゆくのが悔い改めです。日々、罪に死
ぬ私を知り、同時に、日々命与えられる存在があることを知る、これが悔い改めです。そして私たちがそうし
て生きる時、天の国には大きな喜びがあるのだとイエスさまは言うのです。
見失った羊の譬えは、あなたを見つけに来て下さるかたがいることを伝えています。続く無くした銀貨の
譬えでは、それはあなたに見つけるだけの客観的価値があるからでないことを伝えます。ドラクメ銀貨とは、
一日の日当相当です。一日で得られるだけの価値、それが客観的な価値。私たちだって、もしそれだけのお
金を失くしてしまったら必死に探すでしょう。しかし、それが見つかった時、友達やご近所さんを呼んできて
一緒に喜んでくれという人がいるでしょうか。あなたを見つけ出そうとしてくださるかたは、ただただ主観的
な価値に基づいてあなたを見つめています。神さまにとってあなたはとても尊い。神さまはあなたを見つめて
くださっています。私たちも、神さまを見つめ、神さまと共に歩んでゆきたいのです。そして、もし誰かが神さま
の声に気付き、神さまの方を向いて歩もうとするならば、そのことを自分のことのように喜んで生きてゆきた
いのです。福音とは良き報せと言えます。『あなたを見つけた』と語る神さまからの良き報せと共に、新しく始
まる一週間を歩み出してまいりましょう。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスに
あって守るように。