2022年9月4日「自分の十字架」藤井邦夫牧師

礼拝説教

申命記30:15~20、フィレモン1:1~21、ルカ14:25~33

 今日の福音書の日課は長い牧師の歩みの中で、何回も聞かされ、何回も取り扱った箇所
ですが、改めて読んでみると、ワァー大変だなあと思ってしまいます。「父、母、妻、子
供、兄弟、姉妹を、さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子で
はありえない。」とイエス様は言われるのです。この意味を解釈して、「骨肉の縁より、
己自身よりもイエスを大切にすべきことを要求しておられる」としても少し柔らかくはな
りますが、やはり大変だなあと思わされます。しかもルカ福音書にはこの後の二つのたと
えがついているのです。塔を建てる場合、ほかの王との戦いの場合、最後まで建てること
が出来るか、相手に勝つことが出来るかよく検討してからということを聞くとなおさら厳
しい言葉、困難な言葉であると感じさせられます。
 旧約聖書の日課もそうです。与えられた律法、戒めを守れば祝福を、守らなければ呪い
をという言葉も厳しい言葉です。神様は旧約の中でこの表現をよくされています。有名な
王である、ダビデやソロモンに対しても、誠実に神様の前を歩むなら、掟と法を守るなら
、彼らの王座をとこしえに続けさせるが、神様が与えた戒めと法を守らず、他の神々に心
を向けるなら、彼らの王座は続かず、イスラエルを捨て去ると言われています。旧約の民
はこの緊張感の中に置かれています。そしてそのことを忘れてしまったとき、彼らは困難
の中に投げ出されているのです。
 では聖書の中にこの肉親の縁よりも神様やイエス様を大切にしたものたちがいるだろう
かと思いますと、真っ先に思い浮かぶのはアブラハムがイサクをささげた出来事です。年
老いて、子供がもうできる年齢ではなかったのに、約束の子として与えられたイサク、そ
の子を神様は焼き尽くす献げものとしてささげるようにとアブラハムに言われます。アブ
ラハムはこの言葉に答えてモリヤの地に行き、イサクをささげます。この姿によってアブ
ラハムはたたえられています。この事を受けて、多くの人はアブラハムの信仰の深さをた
たえます。一方子供を焼き尽くす献げものとしてささげる残酷さに心を痛める人もいるか
もしれません。しかし、このアブラハムの姿は始めからこうであったのではないことを理
解することはとても大切です。
 アブラハムは75歳の時、神様からの子孫が増えることの約束のもとに、神様の召命を受
けて旅立ちました。しかし時がたっても子供は与えられません。だいぶ時がたったあると
き神さまはアブラハムの前に現れてアブラハムに祝福の言葉を言われました。ところがア
ブラハムは少し汚い表現をすれば、「神さま白々しいですよ。わたしに約束の子供を与え
られないから私は自分の僕の子を跡継ぎにしなければいけないと考えなければならないじ
ゃありませんか。」と文句を言うぐらいでした。アブラハムはこのとき神さまの約束の言
葉をもうあきらめ疑っていたのでしょう。そのアブラハムに対して外に出させて空の星を
見せあなたの子孫はこのようになると言われ、アブラハムの思いを強められたのです。そ
してまた時がたち、それでも子供は与えられませんでした。その時妻は自分との間に子供
ができないので、仕えめとの間に子供を作るようにと提案します。アブラハムはその申し
出を受け入れます。その時のアブラハムを思えば、神様の約束を少し薄めてしまったと思
います。自分の血が継がれるのだから妻との間の子ではなくてもいいかと。そしてイシマ
エルが与えられ、その子が少し大きくなった時、神様はアブラハムに現れ、妻サラとの間
に子供が与えられると祝えます。アブラハムはもう自分の血を分けた子がいるからいいと
言いますが、神様は妻サラとの間に子供を与えると言われます。そしてイサクが生まれた
のです。この事を通して、アブラハムは神様は真実な方、約束を守られる方であることを

理解したでしょう。しかも、それを少しごまかした形ではなく、まっすぐな形で約束を守
られる方であると理解したと思います。このように信仰を育てられたアブラハムは、イサ
クをささげよとの神様の声に、神さまを信頼して、イサクをささげようとしたでしょう。
ささげようとするふりをすれば神さまが手を差し伸べられると思ってしたのではありませ
ん。まことにささげようとしたのです。その時深いところで真実な神様への信頼があった
でしょう。そのように育てられてきたと思います。確かに神様はイサクの代わりの羊を用
意してくださいました。
 新約聖書ではどうでしょうか。弟子たちのことが頭に浮かびます。ペトロも、アンデレ
もヤコブもヨハネもイエス様の呼びかけに対して、家族も財産も捨ててイエス様に従いま
した。この事をイエス様が祝福する言葉を福音書は載せています。しかしどうでしょうか
、彼らは自分の命を差し出すことはできませんでした。イエス様が十字架につけられるた
めに捕まえられた時、命が惜しくなって逃げてしまいました。ペトロは3回もイエス様の
ことを知らないと言ったぐらいでした。でも彼らは最後には殉教死するように自分の命ま
で差し出したのです。そこまで何があったでしょうか。それは復活の主に出会い、さらに
聖霊を受けることによってです。ペトロなんかは3度も自分を愛しているかとイエス様に
尋ねられることにより、自分の失敗から回復させられたでしょう。
 これらを見ると、イエス様の最初に掲げた言葉は、初めから弟子たちのものであったわ
けではなく、弟子たちも復活の主に出会ったり、聖霊を与えられることにより、育てられ
ることによって、そのような信仰に育てられたと言えると思います。イエス様とかかわっ
ていれば育ててくださる。初めは自分の罪もわからないかもしれない。十字架の意味も復
活もわからないかもしれない。自分と何の関係もないと思っているかもしれない。また自
分の境遇に腹を立て、わめき散らしているかもしれない。なぜ自分にこのような苦しみを
与えられたのか、このような不利な条件を与えられたのかとわめき、それらを受け取って
行けないかもしれない。しかし、イエス様とかかわり、何らかの形で神様やイエス様に心
を向けていれば、罪も十字架も復活も深いところで理解できるようにしてくださる。育て
てくださる。自分に与えられた困難や色々な障害も、受け取って、前を向いて歩めるよう
にしてくださる。
 イエス様が今日の福音書で言われた最後の二つのたとえも、わたしたちができるかどう
か計算してそれから望むのではなくて、むしろ自分は弱いものだ。自分の力では家族や自
分の命よりもイエス様を大切にすることはできない人間だということを理解し、イエス様
によらなければそう生きることが出来ないと理解して、信仰の道を歩む、そのことをこの
二つのたとえは示しているのだと思います。神さまやイエス様がそうしてくださる、その
ことが示され、それを信頼して歩むことを教えてくださっていると私には思えます。自分
の信仰の歩みを思ってもそうだと思います。自分は二つのたとえが示すようにことを覚悟
して洗礼を受けたわけではありません。もう少しいい加減であったと思います。でもその
歩みを通して少しずつ育ててくださいました。牧師になることに対してもそうです。わた
したちが信頼することは、神さまやイエス様が育ててくださるということではないでしょ
うか。