2022年8月21日「神の思いを知る」中島康文牧師

礼拝説教

聖書箇所:イザヤ58;9b-14、ヘブライ12:18-29、ルカ13:10-17、)

*私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とがあなた方にあるように。
久しぶりに「旅行」という行為を許され、今日、ここに立たせていただき、御言葉を取り次ぐ
恵みをいただいている。このような場をお与えくださった皆様に感謝したい。
下関・厚狭・宇部教会の皆様には、長男を日頃お支えくださり、「父」として感謝いたしてお
ります。3 年前に参りました時は、厚狭教会でのみ奉仕をさせていただきました。2 年前も別の
仕事もあって、下関に立ち寄りたいと願っておりましたが、コロナ感染症もあって来ることがで
きませんでした。感染症が始まって 2 年半、昨年も願いが叶わず、今年やっと実現でき、楽しみ
にしてまいりました。今日、ここにおられる皆様は、いろいろな思いをもってきてくださってお
られることでしょう。中には「中島共生牧師のお父さんってどんな人だろう?」と興味津々で来
てくださった方もおられるかもしれませんね。しばらくの間、共に御言葉を聞いてまいりましょ
う。
さて、一人の女性がいたと福音書の日課は始まっている。彼女は 18 年間も病で苦しんでいた。
「腰がまがったまま」とあることから、現代の病名では「脊柱後湾症」であろうと考えられる。
エストロゲンの減少によって骨が脆くなる病気と聞く。実は、市川教会にもこの病に苦しむ女性
がいる。彼女は私と同年齢。数年前まで元気に教会の役員としても働いてくださっていた。数年
前よりご両親の介護に専念され、教会にもなかなか出席することができなかったが、半年くらい
前からご両親をディサービスに預けることで、日曜日に出席できるようになったと喜んでおら
れたが、腰が曲がる病気「脊柱後湾症」で辛いと話してくださった。余りの変化に、私は何も言
って差し上げることができない自分がいた。
福音書の女性を、市川教会の彼女に重ねてしまう。「婦人よ、病気は治った」、私もそういって
差し上げたいが、その力はない。しかし、病気は実際には治らなくても、「病気は治った」と言
って差し上げることはできるのではないか。福音書の出来事を時系列的に並べると、そう思えて
くる。なぜなら、女性の腰が真っ直ぐになる前に、イエスの「病気は治った」という言葉が発せ
られているからである。腰が真っ直ぐにならないのに、何故イエスは「治った」と言われている
のか。
18 年間という長い年月、彼女の苦しみはいかばかりであっただろうか。痛みに苦しみ、生活
に苦しみ、時には「罪人」という厳しい言葉や視線を注がれる中を生きてきたであろう。神を見
失う事すらあったかもしれない。そのような中で、彼女はイエスの所に来たのである。安息日に
イエスが会堂に来るということを知って来たのである。「何とかしてイエスに会いたい、言葉を
いただきたい、できれば癒していただきたい」とやって来たのである。イエスは目を止めてくだ
さった。そして「治った」と言ってくださった。苦しみに寄り添ってくださるイエスを知った時
に、彼女の苦しみや困窮、孤独は癒されたのである。「あなたの側にいる」、その確信こそが私た
ちにとって最大の恵みにほかならない。
では、イエスは何故、「彼女を見て呼び寄せられたのか」ということをもう少し考えたい。

町や村には会堂があった。安息日に成人男性は会堂に行く。そこでは、儀式ばったものではな
く、祈りがあり、聖書の朗読があり、小さな話があり、貧しい者への施しが、信徒特にファリサ
イ派の人の先導によって行われていた。イエスも求められて聖書の朗読をおこなったりしてお
られただろうし、会堂はその地の人々にとって寛げる場所であり、特に安息日は、そのような時・
場所であった。「成人男性に交じって身を隠すようにした女性がいる、しかも腰を曲げたままで」、
イエスは彼女の姿から、女性の真剣さを、いや必死さを感じ取られたことであろう。「イエスは
彼女を見た」のである。
では、会堂長は何を見たのか、そして何故に腹を立てたのかということを考えてみる。
会堂長が見たものは、イエスが女性の曲がった腰を真っ直ぐにされる行為であった。その日は
安息日であった。安息日は仕事をしてはならない、だから「病をいやすという医者の仕事をした」
ことを、律法違反とみなしたのである。だからこそ、「安息日はいけない」と非難したのである。
会堂長は何を見たのか。会堂長は女性を見たのではなく、自分を見た。会堂長としての立場、
その目の前で仕事をするということを許してしまったら、会堂長という働きを続けられないか
もしれない、そういう恐れを抱いたのではないか。
「善きサマリヤ人」の譬えを思い出す。傷つき倒れている人をの横を、祭司・レビ人・サマリ
ヤ人が通る。彼らはそれぞれに何を見、思ったか。祭司・レビ人は倒れている人を助けることで、
自分の立場が危うくなることを見た。倒れた人=汚れた人を助けることで自分も汚れてしまい、
神殿や会堂での働きを行うことができなくなる。彼らとて「助けてあげたい」という気持ちがあ
っただろうが、助けたら自分が困るのである。サマリヤ人は倒れた人を見た。このまま通り過ぎ
たら、倒れた人はどうなるか、彼の家族はどうなるかと考えた。サマリヤ人は自分の事ではなく、
倒れた人を見た。
会堂長は律法が目指すものをみることなく、律法そのものしか見なかった。18 年間の女性の
苦しみよりも、「安息日の律法を守ること」に心を注いだ。第一の日課、イザヤ書 58:13~14。
「安息日に歩き回ることをやめ/わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ/安息日を喜びの
日と呼び/主の聖日を尊ぶべき日と呼び/これを尊び、旅をするのをやめ/したいことをし続けず、
取り引きを慎むなら/そのとき、あなたは主を喜びとする。/わたしはあなたに地の聖なる高台を
支配させ/父祖ヤコブの嗣業を享受させる。/主の口がこう宣言される。」しかし、これより前、
10 節「飢えている人に心を配り/苦しめられている人の願いを満たすなら/あなたの光は、闇の
中に輝き出で/あなたを包む闇は、真昼のようになる。」この言葉が先であることを、私たちは知
らなければならない。そこに神の思いがあるからである。
イエスは神の思いを知り、18 年間も苦しみ続けた女性に寄り添い、そして癒された。神の思
いは私たちにも注がれている。困難な時にこそ、愛溢れ、一人ひとりを救いたいという神の思い
を思い起し、それぞれに与えられた場で、歩みを続けて行こう。
主の平安を祈っています。

  • 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリ
    スト・イエスによって守るように。