2022年8月14日「何を切り裂くのか」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ23:23~29、ヘブライ11:29~12:2、ルカ12:49~56

 最近ローマ書を読んでいるのですが、自分だけで読むと、何か同じような理解に陥る傾
向があって刺激が少ないので、小川修と人が講義したものをルーテル教会の4人の牧師が
テープから掘り起こして本にしたものを読みながらローマ書を読んでいます。この4人は
この教会に関係している立山忠浩牧師や今の総会議長の大柴譲二牧師が入っています。「
パウロ書簡講義録1」としてローマ書の3章までがまとめられ出版されたときこの二人から
署名入りで贈呈されました。先日の機関紙「るうてる」に大柴先生が講義全体を掘り起こ
す作業が10年かけて完成したことを書いていました。この小川修という先生が強く示して
いるのは「信仰」という言葉の理解です。信仰というと何か私たちの側のものと思えます
が、そうではないことを示しています。「信仰」はギリシャ語でピスティスというのです
がこれをこの先生は「まこと」と訳してパウロが現わしているピスティスには第1のピス
ティスと第2のピスティスがあって第1のピスティスから第2のピスティスに行くのだとい
うのです。まず第1のピスティス、イエス様の「まこと」があって、それに気づき、理解
し、受け取る第2のピスティス、すなわち私たちの「まこと」「信仰」があるわけです。
 この事を最初に述べたのは今日の第2の日課ヘブライ人への手紙に「信仰によって
」・・・という言葉が力強く出ているからです。何かこの部分を読んでいると強い信仰者
がいて、すごいことが生じている。強い信仰がこのようなことを生じさせていると思いが
ちです。でもそうではないと思うのです。何か強い信仰が出エジプトの時、紅海の水を二
つに分けさせその間をイスラエルの人々は進んだと思うかもしれませんが、そうではない
のです。目の前にはエジプトの大群がいる、そして背後には紅海がありどうしようもない
。そのとき神さまの「まこと」が紅海を二つに分けられ真ん中に乾いた地が生じた。この
出来事にイスラエルの人たちは気付き、受け入れ、そこを渡ったのです。まずそこには神
様の「まこと」愛の出来事があるのです。イスラエルの人たちは周りの恐ろしい状況にも
かかわらず、それを受け入れて渡って行ったのです。
 私たちがいう「信仰による義」も同じことです。わたしたちの信仰がわたしたちの義を
作り出すのではないのです。まず神様の側の「まこと」、すなわちイエス様の十字架によ
り贖いがあり、それに気づき、それを理解し、それを受け入れることによって私たちが義
とされるのです。それに気づき、理解し、受け入れることは簡単なことではありません。
なぜなら私たちの目の前には現実があるからです。いつも負けてしまう弱い自分。自分の
中にある罪、また現実の社会の中にある暗さ。それにもかかわらず、その中に、それを越
えて、イエス様の「まこと」十字架による贖いが示されているのです。この現実の中でイ
エス様の「まこと」に気付いて、理解して、受け入れるのです。
 今日の聖書の日課はわたしたちに少し厳しさを感じさせるところです。旧約聖書では「
わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか
。」とあります。当然そこでは遠くからの神、すべてのことを理解しておられる神に重点
があります。そしてその後に偽りの預言者が示されています。これは現実をしっかり見ず
大丈夫だ大丈夫だという預言者を示しているでしょう。
 今日の使徒書ヘブライ人への手紙の箇所には、信仰によって困難を乗り越えた人たちが
出る一方、この世では信仰によって神に認められながらも、約束されたものを手に入れら
れなかった人々も出てきます。迫害で殺された人々、しかも残虐な死に方をした人々が出
てきます。

 福音書には「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか、そうではない、言
っておくが、むしろ分裂だ。」とあります。そして家族同士が対立することが示されます
。同じ内容を書いているマタイ福音書では「剣を投げ込むために来た」とまで言われてい
ます。
 私は今日の説教題を「何を切り裂くのか」としました。わたしたちを縛っているもの、
切り裂かなければならないものは何でしょうか。神様から私たちを遠ざけているものは何
でしょうか。両面があると思います。片面はわたしたちの豊かさです。もう片方はわたし
たちの苦しみです。これから日課として出てくるものですが、金持ちの人と貧乏人ラザロ
の話は富が隣人へと心を向けること、すなわち神の愛の教えに気付かないでいることをよ
く示しています。また平和だと思っている生活は、多くの苦しんでいる人たちの上に立っ
ていることに気付かなくさせるものでもあります。また、家族愛はそれに強く縛られて、
公平性や、正しさ、また他の人への配慮に心を向けることをむつかしくすることがありま
す。
 逆に困難さ、苦しみはそれがわたしたちの目の前で大きくなって、その背後にある神様
の愛や、恵みを忘れてしまう、心を向けることをむつかしくさせてしまうものでもありま
す。イエス様とともに船をガリラヤ湖に漕ぎ出し、嵐のために慌てふためいた弟子たちの
姿はそれをよく表しています。困難や、苦しみがわたしたちを襲ってきたとき、その困難
さや苦しみの現実においても、その深いところで神様の真実、愛、恵みが存在しているこ
とに気付くことは、わたしたちには不可能のようにさえ思えます。しかし、確かにイエス
様の出来事は成り立っていますし、十字架の死によって、わたしたちの深い所の罪は贖わ
れ、神さまとの間は開かれているのです。このことに気付き、この事を受け入れること、
それはわたしたちの「まこと」信仰です。この事はわたしたちは一般的なものとしてでは
なく、それぞれの人が自分の人生において、自分の立っているところの底に、神様の「ま
こと」があることを見出し、理解し、受け入れていくことが大切でしょう。