2022年7月31日「富とわたしたち」藤井邦夫牧師

礼拝説教

コヘレト1:2,12~14、2:18~23、コロサイ3:1~11、ルカ12:13~21

 私たちがこの世で人生の歩みを重ねるときの、大きな問題は「富」の問題であると思い
ます。そしてその問題を見るとき、合わせて考えるべきことは「貪欲」であると思います
。その背後を流れているのは「わたしたちのいのち」であると思います。現代において富
を考えるとそれは経済にも置き換えられると思います。命と経済の関係は現在のコロナウ
イルスの問題に置いて出てきています。命を守ることに重点を置くか、経済を守ることに
重点を置くかは、色々の決断をするうえで、問題となります。これはわたしたちが生きて
いる限りあれかこれかというより、深く結びついているものと言えるでしょう。だから問
題が生じやすいと言えると思います。これらの問題に今日の聖書の日課がどのように述べ
ているかを聞いてみたいと思います。
 今日の福音書には遺産分けに関してとりなしてほしいとある人がイエス様に頼むところ
から始まっています。遺産分けの問題など指導者が判断するということは旧約聖書にはよ
く出てきますので、この依頼をイエス様にしたということは、イエス様を指導者として判
断して頼んだのでしょうから、そのことに関して特に責め立てることではありません。し
かしイエス様はこの依頼を拒絶されました。それはその後のことを伝えることが大切なこ
とであったからでしょう。それは物、富に支配された貪欲という問題でした。そして一つ
のたとえ話をされたのです。このたとえ話で終わりの方に重要な考えがある言葉を言われ
ます。それは「「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、
一体だれのものになるのか」という言葉で、その中で特に「お前の命は取り上げられる」
という言葉です。この言葉は命の返還を要求されるという意味を持っています。そしてそ
ういうときの心は「いのちは神様からの預かりもの」という考えに立っています。わたし
たちは自分の命は自分のものと思いがちですが、実は神様からの預かりものであるという
考えがあるのです。わたしたちにとって一番大事な命が神様からの預かりものなら、今日
のテーマの富もまた神様からの預かりものと考えてよいでしょう。「神さまからの預かり
もの」は大切な理解ですので心に強く止めておきましょう。
 さて、今日のテーマの富、そしてそこに生じる貪欲を見てみましょう。貪欲という言葉
は、深い欲、むさぼり、かすめ取りという意味をもった言葉です。そして関連の言葉には
形容詞で、より多くの、より多数のというものがあります。何かのものと自分との関係、
より多くそのものを得たい、自分のものにしたいという思いで、それがつのると主客逆転
して、物に支配されてしまっているとも言えます。物もまた神様からの預かりものという
考えではなく、自分自身のものと考えるとき、間違いが生じます。今日の使徒書には「貪
欲は偶像礼拝」という言葉がありますが、まさに物に支配されている状態を指しているで
しょう。貪欲はお金や富だけの問題ではありません。地位や名誉、そして権力もその対象
になります。この貪欲に陥っている人が権力者になると、その世界は本当に不幸です。貪
欲は自分を楽しませることのみに目が行くことやごまかしが生じることは聖書が伝えてく
れていることです。紫の服を着た金持ちが、その富を自分を楽しませることのみに使い、
自分の家の門前に食べるものもない惨めなラザロが座っていても、そこに心を向けること
がないことは聖書が伝えてくれていることです。またイエス様の復活・昇天後に、信徒の
群れは自分の持ち物を主張せず、教会に持ち寄り皆でわかちあったことは初期の教会の歩
みとして聖書に示されていますが、その中にもアナニアとサフィラという夫婦が、この仲

間に入ろうと自分の土地を売って教会に持ってきたのですが、全部渡すのは惜しくなって
一部だけを持ってきてそれを全部のようにしたのは使徒言行録に出てくる有名な話です。
貪欲はこのような誤魔化し噓を生み出すのです。
 では貪欲の反対は何でしょうか。それは命のところにもありましたが、神様から託され
たもの、与えられたものとの理解に立つことでしょう。そこには感謝して生きること、感
謝して用いること生じますし、更にわかちあうことが生じます。命を神様からの預かりも
のとして生きることは、その時の自分を受け入れて歩む者となるでしょう。たとえ困難な
状況においてもそれを受け入れて歩む者とされます。そしてそこには感謝の思いが同時に
生じてきて、そして他の人にも心が向き、命のわかちあい、すなわち、交流、思いやり、
対話が生じるでしょう。他者の命をも大切なものとして考えるようにさせられます。
物においても神様から与えられ、託されたものと考えることは、わたしたちの歩みを大
きく変えます。自分だけのものという考えから解放されます。すなわち貪欲から解放され
、ものに支配されることから解放されます。感謝して大切に用いるようになるでしょう。
そしてわかちあおうという思いも生じるでしょう。聖書は旧約聖書の時代から弱い立場の
人たちを大切にする考えを持っていましたし、新約に入っても募金によって傷んでいる人
たちを助けることを多く勧めています。わたしは教会のミニバザーをいつもすごいなと思
ってみています。教会のために何かしたいという思いがそこにあるでしょうが、根本には
自分のところにできたもの、自分で作ったものを皆にわかちあうという心があると思って
います。
最後に分かり切っていることですが、ここで私が言っている神様は聖書が示している真
実で正しく愛に満ちた神様です。旧統一教会今の世界平和統一家庭連合やオウム真理教は
教祖自身が貪欲の中にある宗教であると思います。これらの神様に惑わされないようにし
ましょう。