2022年7月24日「神さまとの対話」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記18:20~32、コロサイ2:6~15、ルカ11:1~13

 今日は「祈り」がテーマとして与えられています。祈りは信仰者の呼吸であるとも言わ
れているように、わたしたち信仰者の信仰生活にとってとても大切なものです。
 祈りというと、昔から祈りは本当に聞いてもらえるのかしらという思いが深い所であっ
たようにも思います。例えば明日遠足だから晴れにしてくださいと、やはりお祈りします
。しかし心の底では雨になっても仕方がないなあという思いも一方ではありました。
 長い信仰生活の中から、今祈りは聞いてもらえるのではないかという思いが強くなって
います。例えば、昔から車を走らせていて、どこかに行くとき、ぎりぎりで遅刻する可能
性大きいときも、どうか間に合わせてくださいと願いながら走らせます。わたしの経験で
は必ず時間前に着いたのです。また交通機関を使って、あるところに行くとき、ぎりぎり
の時もどうぞ時間前に着かしてくださいとの思いでいったときちゃんと時間前に着いた経
験がたくさんあります。ただこれはどうでもいいとき、遅れたことがあるかもしれません
がそれは忘れているのかもしれません。でもこの時につかなければならないというときに
、記憶の中では遅れた経験がないのです。そして何か聞いてもらえているという思いが出
来ているのです。
またこのような経験もあります。静岡教会で牧会をしていたとき、 沼津教会に講壇交
換で行ったことがあります。行く途中で何か体の変調を感じ、牧師館で休ませてもらい、
礼拝の時、体調は戻っていましたが、礼拝後の交わりの時またおかしくなったので、早め
に教会を失礼させてもらいました。沼津から静岡まで70キロぐらいあったと思いますが、
その途中一般道ですが高速道路のようなところもあります。首のあたりが何ともおかしく
なっていて、車を走らせる間、どうぞ無事に着かしてくださいと祈りながら走らせました
。無事に牧師館に着いた後、すぐに救急車を呼んで心臓周りの血管にステントを入れる手
術をしました。また娘愛の夫が宇部に来た時、急に心臓が止まって、救急車で山口医大に
運ばれ、手術をし、3か月ぐらい入院したことがありますが、この時命が助かるように、
また後遺症がないように真剣に祈り、教会の人たちにも祈ってもらいました。そして後遺
症もなく回復した経験もありました。また熊本で大学のチャプレンをしていた時、学生た
ちでクリスマスの礼拝をしました。ほとんど信仰者でない学生たちです。学生たちと始ま
る前に祈りをし、また私自身も神様に委ねる祈りをしました。そして、礼拝がとてもスム
ーズな、クリスマス礼拝らしいものにできたのです。これらの経験はわたしに、祈りは聞
いてもらえるという思いを与えてくれているのです。
一方逆にこうゆう面もあります。わたしは若いときから、取り去ってくださいとの祈り
のことがありました。例えば、長い経験を通して、自分が調子が悪くなるのは、山口県を
離れてよそに行くとそうなるのです。馬鹿らしく思えることなので、そんなことはとわた
しは思い続けましたが、やはりそうなのです。狭い所ではなく、大きく羽ばたきたいのは
誰でも同じでしょうから、わたしもそうで、このようなことを取り去ってほしいと願い祈
りました。でもやはりこの事は取り去ってもらえないのです。この意味では私の祈りは聞
いてもらえていないのです。
今日の聖書の日課から祈りに関して聞いてみましょう。福音書には主の祈りが載ってい
ますが、今日は主の祈りの内容を見るのではなく、祈りについて聞いてみたいと思います
。今日の日課を見ると驚くことがあります。それは強く求めることが極端な形で示されて
いるからです。旧約聖書ではアブラハムが脅すように神様に訴え、しかも執拗に訴えてい
ます。まず、アブラハムは神様に対して「まことにあなたは、正しいものを悪いものと一

緒に滅ぼされるのですか。」と訴えています。神様に対してこう訴えているのです。そし
て50人45人40人30人20人10人と執拗に求めています。それがあまりに執拗すぎるのがわ
かっているので、2回も「主よ、どうかお怒りにならずに」という言葉を付け加えて願っ
ています。この事からも自分が正しいと思えることを訴えること、しかも熱心に何回も執
拗に、粘り強く訴えることが大切であることがわかります。
福音書を見るとこれも驚くべき形で熱心に願うことが示されています。主の祈りと、求
めなさいと言われている間に一つのたとえ話をイエス様は語っています。ある人のところ
に旅行中の友達が訪ねてきて、食べるものがなかったので隣の人に助けを求める話です。
そしてその結論のように「しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起
きて何かを与えるようなことはなくても、執拗に頼めば、起きてきて必要な物は何でも与
えるだろう」と言っておられます。ルカ福音書には18章に「やもめと裁判官」というたと
えで同じようなことが言われ、熱心に祈り求めることの大切さを伝えています。そして今
日の日課ではその後に「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」と求めること
の大切さを述べておられるのです。だから熱心に祈ることがどんなに大切かが示されてい
ると思えます。そして人間の世界でも熱心に求めるものの願いをきくのに、まして天の父
、神様がその願いをきいてくださらないはずがあろうかと言い、求めることの大切さと、
その願いが必ず聞かれることをイエス様は言われています。
そしてもう一つこの日課で聞いておかなければならないことがあります。それはイエス
様は人が求めたそのものを与えるとルカ福音書は言わずに「求めるものには聖霊を与えて
くださる。」と結んでいるのです。これはどんな意味を持つのでしょうか。聖霊は神様の
側のものであり、わたしたちに神さまのみこころを理解させてくれるものです。ここは聖
霊を求めなさいとも、わたしたちが求めるとき、そのことに対する神さまのみこころを知
らしてくれるとも理解できます。先ほど、わたしが山口県を離れると調子が悪くなるとい
った問題で、それを取り除いてくださいと祈り続けるとき、そのことに対する神さまのみ
旨を教えてくださると理解できるのです。
今日のコロサイ書には「あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、
キリストに結ばれて歩みなさい。キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとお
りの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」とあります。わたしたち
が祈り求めるとき、神様の側のもの、キリストを受け取って行き、キリストに根を下ろし
て造り上げられていくのだと思います。