2022年7月17日「わたしたちを生かすもの」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記18:1~10a、コロサイ1:15~28、ルカ10:38~42

 今日の福音書の日課のマルタとマリアの話はよく話題にされるところです。「必要なこ
とはただ一つだけである。マリアは良いほうを選んだ」というイエス様の言葉があるので
、大切なものは何かという方向でよく説教がなされます。しかし、教会にはマルタのよう
に自分を差し出して働いている人たちが多くいますので、そちらのほうからも自分たちは
どのような者なのだという声もよく上がります。そしてこの箇所は単にあれかこれかと選
ぶことではなくて、わたしたち信仰者の歩みには両方が必ず存在し、また大切なことです

 私たちの教会の名前の由来であるルターの有名な著作に「キリスト者の自由」がありま
すが、そこには相反するような2つの命題が載っています。一つは「キリスト者はすべて
のものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服さない。」もう一つは「キリスト者は
すべてのものに仕える僕であって、だれにでも服する。」という命題は今日のマルタとマ
リアの関係と同じものを持っています。初めの命題はマリアの方の立場、後の命題のほう
はマルタの立場にあたります。また、律法が表わしている根本は「心を尽くし、精神を尽
くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」と「隣人を自
分のように愛しなさい。」という二つに尽きると言われています。お分かりのように神を
愛するという方はマリアの立場、隣人を愛するほうはマルタの立場です。マルタとマリア
の姿は信仰者の基本的な在り方なのです。ただ体を持っている人間ゆえに、そこにはいろ
いろな問題が生じてしまうのです。
 わたしたちはこの世で生きており、しかもこの体を持って生きているので、様々なこと
に出会います。食べ物をどうしようか、着るものをどうしようかと思い悩むことは多くあ
ります。そのような私たちに対してイエス様は「思い悩むな」という話を弟子たちにされ
ています。空の鳥、野の花を見なさい、神様は養い着飾ってくださっているという話しを
され、そして結論として「ただ、神の国を求めなさい」と言われています。また、イエス
様をサタンが荒れ野で誘惑した最初は空腹になったイエス様に対して神の子の力を使って
石をパンに変えて、空腹を満たすようにと誘惑しものです。その誘惑に対して、イエス様
は「人はパンだけで生きるものではない」と言われ、マタイ福音書にはさらに「神の口か
ら出る一つ一つの言葉で生きる」とあります。これらを見ても、聖書が、そしてイエス様
が、わたしたちの生きることの根本に神様との出会い、神様の言葉があると示しているこ
とがわかります。若者が自分は何者で、生きる道は何かを求めるとき、神さまと出会うこ
と、神様の言葉を聞くことは根本的なことなのです。だからマリアがイエス様の足もとで
イエス様の話を聞いていたことは、マリアにとって必要なことだったのです。だからイエ
ス様は「マリアは良いほうを選んだ、それを取り上げてはならない。」と言われたのです
。聖書の中ではっきりとはしていませんが、マリアは何か求めている人であり、また何か
苦しみを抱えていたかもしれません。その時のマリアにとってイエス様の言葉は必要であ
ったのです。
 ではマリアの在り方が信仰者のすべてかというとそうではありません。信仰者の在り方
の根本ではありますが、すべてではないのです。御言葉は聞くだけではありません。信仰
者もこの世で、生きている者、行動するものです。御言葉に生かされた者はこの世に仕え
る者、隣人を愛する者として出ていくものです。マリアがイエス様の足もとでイエス様の
言葉を聞き続けたということ、また聖書の言葉の前に座り宇づけている人が信仰深い人と

いうわけではないのです。確かに信仰深いですが、その人にはそれが必要だからそうして
いるのです。極端に言えば、その人はまだ、御言葉によって解放されて隣人へと向かうと
ころに導かれていないともいえるのです。
 聖書はあらゆるところで隣人を愛し、仕えることを語っています。特に助けを必要とし
ている人にはなおさらです。今日の旧約聖書の日課を見るとよくわかりますが、アブラハ
ムは旅人をもてなします。しかも最高のもてなしをしているのがようわかります。この旅
人をもてなすことは旧約の時代から大切なことであったのです。助けを必要としている人
に手を差し伸べることは神様の御心だったのです。
また、マタイ福音書の25章には助けを必要としている人に手を差し伸べること、例えば
飢えている人に食べさせ病気の人を見舞うことは、イエス様に対してしたのであること。
そしてそうである人たちを無視したのはイエス様に対してしなかったことであると言われ
ています。さらに極端に言えば、イエス様の言葉を聞きながら、隣人に仕えることをしな
い者、特に助けを必要としている人を無視することは、真にイエス様の言葉を聞いていな
いともいえるのです。
 ただこの時こころえておくことが必要です。それぞれの人に、それぞれの時があるので
す。御言葉を聞かなければならないときがあるのです。性急に人を裁かないで見守ること
もまた必要でしょう。
 最後に隣人に仕えるときのこと、その時こころしておくことを見てみましょう。わたし
たちはまだ完全な者にはなっておらずこの世で生き、しかも体を持って生きている者です
。この体は倦んだり疲れたりするものです。その時にいろいろな問題が生じます。自分が
していることに空しさを感じたり、してない人に腹を立てたり、色々です。マルタがマリ
アに感じたのもこのようなものでしょう。その時、わたしたちは完全なものになっていな
いこと、絶えず神様から力をいただいていなければならないことを知っておくことは大切
だと思います。疲れて他人に対していら立ちを持った時、自分はなんて小さいものだと絶
望しなくてもいいと思います。自分を攻めなくてもいいと思います。それはまだ完成され
ていない体を持った私たちには当たり前のことです。ただそうだと開き直らないことも大
切です。わたしたちは完全ではないけれど、イエス様によって新たにされるという恵みを
持っています。マザーテレサは、毎日のミサを大切にしていたそうです。なぜならば、自
分はこのミサによって、一日の働きをすることが出来るようにされている。そこへ派遣さ
れていると語っていた本を読んだことがあります。マザーテレサでさえ、毎日イエス様に
よって新たにされて働きへと向かわなければならなかったのです。イエス様によって新た
にされることによって私たちは真に仕えていくことが出来るのです。わたしたちの信仰生
活を神様が導いてくださいますように。