2022年6月5日「真理の霊」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録2:1~21、ローマ8:14~17、ヨハネ14:8~17

 今日は聖霊降臨日、ペンテコステの礼拝です。今日の日課の使徒言行録によると、弟子
たちに聖霊が降ってきたことが劇的に描かれています。聖霊が降ってきた様が目に見える
形、炎のような舌が現れ、弟子たち一人一人の上に留まるとか、激しい風が吹いてくるよ
うな音が耳に聞こえる形で示されています。わたしたちは目に見え耳に聞こえ肌で感じる
世界に生きていますので、そのことを求めるのは当たり前でしょう。人々がイエス様に奇
跡を求めたのも、自分の苦しい状況を癒していただきたいという願いももちろんあります
が、イエス様が神の子であることを示すしるしとしての奇跡求めたのでしょう。聖霊降臨
に関してものことがいえます。聖霊は目に見えるものではありませんので、わたしたちが
感じる形でそれを求めるということがあります。教会の初めから、また現代においてもあ
る人たちはそれを異言という私たちが感じることのできる形を聖霊が与えられたことのし
るしとして求めることがあります。この異言も確かに教会の歴史の中で与えられたもので
もありますので、それを認めることも大切なことでしょう。
 一方神様がわたしたちの目には見えないように、聖霊そのものも私たちの目に見えるも
のではないことも重要なことです。その意味では私たちの信仰の対象であるということで
す。聖霊が与えられていること、その働きがあること、聖霊がわたしたちを導いてくださ
ることを信じることが大切であると言えるでしょう。そのことを今日の日課から聞いてみ
たいと思います。
 まず使徒言行録から見ようと思います。聖霊降臨の劇的な出来事を報告した後、ある人
たちが弟子たちがあのように異言を語っているのは酒に酔っているのだと言ったことに対
して、ペトロが立ち上がって話をします。その中で今起こっていることはヨエルが預言し
たことが生じているのだと語っています。そのヨエル書の引用文に関して、著者のルカが
伝えたいことを見てみたいと思います。ヨエル3:1~5の前半の引用文です。それをルカ
が大きく変えている個所があります。使徒言行録では「神が言われる」の後に「終わりの
時に」とあります。しかしヨエル書ではこのところは「その後」となっています。ですか
らルカが意図してここを変えていることがわかります。そしてこの「終わりの時に」は複
数なのです。だから正確には「終わりの日々に」です。この事でルカはわたしたちが狭義
の終末を考える終わりの時ではなく、「終わりの日々」で教会の時、教会の歩みの日々を
示しています。そう理解できるのです。ということはルカは教会の日々に聖霊の働きが与
えられていることを示そうとしていると思えるのです。
 福音書を見てみましょう。ヨハネ福音書は神様とイエス様が一つであることを強調して
います。今日の日課の中でもフィリポが「わたしたちに御父をお示しください。」と願っ
たのに対して「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか
」と言われています。そしてその流れの後、聖霊、ここでは「弁護者」「真理の霊」と言
われていますが、この方を神様は「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」
と言い、さらに「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるか
らである。」と言われているのです。イエス様が聖霊がわたしたちと共に、そして私たち
の内にいると断言、また約束してくださっているのです。これらは聖霊に関してわたした
ちが信じる重要なことであると思います。
 私は説教を金曜日にまとめ仕上げるのですが、今回聖霊がテーマなので、すこし悩んで

いました。金曜日の早朝、まだ5時前ぐらいですが、もう外は明るくなっています。わた
しの家にあるサンルームの長椅子に座って外を眺めていました。このサンルームがあるの
がこの家を買おうと思った大きな要素でしたが、そこに時々座って物思いにふけったり外
を眺めたりしているのです。その時、自分の過去のことが頭に浮かんできました。色々ち
ゃんとしてないことをしてきたなあ、ということがあれこれ思い浮かぶのです。例えばそ
の一つですが、わたしの両親に関してです。私が熊本に転勤するとき、母を連れて行きま
した。ご存じのように母は股関節を骨折して手術がうまくいかず、寝たきりになっていま
した。熊本に連れて行ったとき、老健施設に入れました。そこは長く入所しておれないの
で、教会の近くの特別養護老人ホームに入ることが出来ました。この時、母は施設に入る
ことを嫌がり、一緒に住むことを心の中では望んでいたと思います。もう忘れたのですが
、たぶん教会建築もあったのでしょうが施設に入るようにしました。しばらく母は落ち込
んでいたようでしたが、ときどき私が訪問する形で生活をしました。しばらくし、具合が
悪くなり、病院に入院しました。医者に手術をしたほうがいいと勧められ、母は前から大
きい手術はしたくないと言っていたのですが、手術を決断しました。その後老人病院に入
院し、そして天に召されました。父は徳山で一人住まいしていましたが、そこで倒れ、近
くの病院に入院し、少し良くなったので熊本に連れてきて、一緒に住んだのですが、1週
間ぐらいで倒れ、入院し、そこで天に召されました。入院していた時徳山に帰りたいと盛
んに言っていましたし、だいぶ暴れたそうです。この父や母のことで、この在り方は仕方
ないと思っていましたが、いやいやかわいそうだったという思いが強くなっていたのです
。これらの思いに沈んでいて、しばらく暗い思いになっていました。しばらくして、イエ
ス様はこれらのことのために十字架にかかってくださったのだという思いが心に浮かびま
した。そしてイエス様の復活の命に生かされるのだと感じたのです。これらは聖霊の導き
であったように私には思えました。
 もう一つ感動したことがあったのでご紹介したいと思います。それは6月1日の聖書日課
に書かれていたことです。「自分の十字架を背負う」と題された、イエス様のその言葉に
対することの中で、著者は「自分の思ったとおり生きられないとき、その状況を自分で引
き受けるなら『自分の十字架を背負う』ことになります。悩みや不安を抱えているとき、
周りのせいにすることなく、自分を責めるのでもなく、今、自分にできることを選ぶなら
、『自分の十字架を背負う』ことになります。」という文章です。十字架を背負うという
と何か大きなことを思い浮かべがちですが、今の自分を、それがどのようなものであれ、
受け取って前向きに生きることを「自分の十字架を負う」として示されたことに、本当に
そうだなあと思ったからです。これも「真理の霊」がわたしを導いたのだと思います。
 私たちには聖霊が与えられています。その約束の中にわたしたちは生かされています。
聖霊の導きを信じて、歩んでいきましょう。