礼拝説教
使徒言行録1:1~11、エフェソ1:15~235、ルカ24:44~53
今日は昇天主日としての礼拝を守っています。イエス様は復活されて40日後に天に上げられました。それは先週の木曜日にあたります。そしてそのことを覚えた主日が今日となっています。
昇天の出来事は今日の日課のルカ福音書と使徒言行録に視覚的に報告されています。ルカ福音書と使徒言行録は同じ人によって書かれたと言われていますので、同じような報告になると思います。マルコ福音書は天に上げられたと書かれて、視覚的な報告ではありません。またマタイ、ヨハネ福音書には天に上げられたという報告はありません。しかし、わたしたちは使徒信条やニケア信条においてイエス様は天に上げられたと昇天されたことを入れて信仰告白しています。ですから信仰において重要なものであることがわかります。
私の使っている註解書では少しむつかしい表現ですが、イエス様の昇天のことを「『昇天』とは、キリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちたという復活体の側面を表現する用語だが、ルカは、神の救いの『歴史』・・・時空に規定されたもの・・・を伝えるという立場から、時空に位置付けられた別れという意味を『昇天』の中心とする」と説明しています。すなわち、ルカはこの世の歴史の歩みとして、時間や空間に支配されたもの、すなわち視覚的に見えるものとして表現したので、天に上げられる姿、別れの姿として表現しているが、昇天を意味内容であらわすなら、イエス・キリストが神の領域に入られたこと、見えない神的な力に満ちたことを示している、というものです。イエス様の復活もそのような意味を持っているので、昇天は復活体の側面を表わしていると言っているのです。イエス・キリストが神の領域に入りということはエフェソ書の今日の日課によく示されているので、後程見てみたいと思います。
そしてその前にルカ福音書とエフェソ書の今日の日課に出てくる「心の目を開いて」とあることを見てみたいと思います。福音書ではイエス様が「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書かれています。エフェソ書では「神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように」とパウロの祈り、願いとして書かれています。この「心の目」と訳されている言語はヌースというギリシャ語ですが、辞書によれば「人間の心で神の霊に接することのできる面」と説明されています。神様とわたしたちの関係の中で、やはり心の目を開いてもらわないと、神様の領域のことはわからないし、理解できないことを示しているでしょう。わたしたちの側にも応答するという面があると思いますが、神さまやイエス様に心の目を開いてもらわないと、今日の昇天のことも受け取れないのだと思います。今の時、こころの目を開いてくださるように祈りの心で臨みましょう。
イエス・キリストが見えざる神の領域に入られたことを見てみましょう。ルカ福音書を見れば、イエス様が弟子たちを祝福しながら天に上げられたとき、弟子たちは「伏し拝んだ」とあります。この「伏し拝む」という言葉は福音書の中で、初めて使われたもので、礼拝行為を示したものです。力あるものの前に「ひれ伏す」とか言うものと違っています。イエス様を礼拝しているのです。すなわちイエス様は神と等しいものになられたこと、そのように弟子たちが考えていることがよくわかります。だから弟子たちは大喜びでエルサレムに帰って行ったのです。
次にエフェソ書を見てみましょう。そこでは「心の目を開いてくださるように」との祈りのもとに、どのようなことを受け取るのかが述べられています。
まず、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」を悟らせてくださるように。とあります。わたしたちが神様の招きによって、イエス様から受け取るものがどんなに素晴らしいものか、また希望のうちに歩ませてもらえるかが示されています。
次に「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか」を悟らせてくださるように。神様の力は絶大なものなのです。
そして最後にイエス様のことが述べられます。「神はキリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」と述べます。イエス様が神に等しい方となられたことをこのように表現しているのです。
さらに素晴らしい恵みの言葉は続きます。このイエス様とわたしたちの関係です。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになられました」。神と等しくなられたイエス様を教会の頭としてお与えになられたと言います。昇天が現わす、神と等しくなられたイエス様は時空の制限を超えておられます。だからどこにでもおられるのです。そのことを私たちにとって喜びの言葉でこう伝えます。「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と伝えます。わたしたちの教会もイエス様が満ち満ちておられる場なのです。見える教会の姿がどうであれ、イエス様が頭として満ちておられる場なのです。心の目を開いていただいて、この喜ばしい言葉を受け入れながら、信仰生活を歩んでいきましょう。