2022年5月15日「わたしがあなたがたを愛したように」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録11:1~18、ヨハネ黙示録21:1~6、ヨハネ13:31~35

 復活された主が弟子たちに自らを示された日課の後に、羊飼いと羊としてのイエス様と私たちの関係が示されました。そしてその後に示されたのが「互いに愛し合いなさい」という勧めです。そしてそこには「わたしがあなたがたを愛したように」ということがつけられています。福音書の日課にはこの事がいわれている前に栄光ということが出てきます。そしてヨハネ福音書ではこの栄光は十字架に上げられることを意味しています。そして日課としてはこの復活節に与えられているのですから、「わたしがあなたがたを愛したように」ということはイエス様の十字架と復活の出来事に表われている愛を示していると言えます。まさにヨハネ第1の手紙4章に言われている「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちに示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」が表わしていることでしょう。この事を前提として「互いに」という言葉の意味を見ることによって二つのことを見てみたいと思います。

 「互いに」をまずそのままの意味で考えてみましょう。互いに愛し合いなさいという言葉をイエス様は弟子たちに言われました。ですから今の私たちで考えるなら、教会の兄弟姉妹どうしと言えるでしょう。今日の日課での中でイエス様は「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」と言われていますから、証しとしてもとても大切なことであることがわかります。今宇部教会には専従の牧師はいません。宇部教会の牧師の中島共生先生は3教会の牧師で下関に住んでいます。ですから宇部教会だけの信徒を牧会するわけにはいきません。こうゆう状況の中で大切なことは信徒同士が互いに愛し合い、覚え合い、配慮し合うことです。電話をしあったり、手紙を出し合ったり、祈り合ったり、そのことを相手に手紙で伝えたり、助けが必要な時は手を差し伸べたりすることです。

 この時心がけることがあります。それは愛の本質をよく理解して行動することです。昔、日本に最初に来た宣教師たちが神の愛を伝えるために、その本質を伝えるために「神の御大切」と神の愛を表現したそうです。それは愛は相手の存在を大切にすることを示しています。愛は自分の満足のための押し付けではなく、相手の存在がいいように生きるために自分を差し出すものです。このように言うと行動を躊躇したり臆病になったりするかもしれません。でも大胆に行動していいのですし、そうすべきです。ただそのとき相手の存在を大切にすることを心においていればいいと思います。

 次に「互いに」をもう少し広がりを持って見てみましょう。旧約の時代からイエス様の当時まで、隣人を愛しなさいというときの隣人はユダヤ人同士を表わしていました。サマリア人のたとえを話される前に律法の専門家が隣人を自分のように愛しなさいという教えを自分自身がしなさいとイエス様に言われたのに対して、自分を正当化しようとして、「わたしの隣人とは誰ですか」と尋ねたのはそのような事情があります。しかし、イエス様はサマリア人のたとえの中で、同胞のユダヤ人が助けなかったのに、異邦人のサマリア人が傷ついたユダ人を助けた話で隣人の広がりを示されました。また今日の日課の中で使徒言行録が与えられていることは、そこで異邦人にも救いが及ぶことが示されていますから、「互いに愛し合う」が、仲間同士からの広がりをもって受け止めることが示されていると思えます。この関連で言うと、敵を愛しなさいという言葉、自分を迫害する者のために祈りなさいという言葉、これらのイエス様の言葉も、「互いに愛し合う」の互いにの理解が広がっていることを覚えることが出来るでしょう。

 そしてこの「互いに」の広がりを持つということは、自分の民族の人々だけでなく、他の民族の人々、もっと言えば他の民族の存在をも大切にすることであると言えるでしょう。この事を考えると、今のウクライナにおけるロシアの侵攻はまさに真逆のことであると言えます。ロシアがしていること、プーチン氏がと言ったほうがいいかもしれませんが、それに対してはっきりとノーということは、正しさが成り立つうえでとても大切であると言えます。ロシアの侵攻に対してウクライナが力で反撃することは国を守り、国民の命、自由を守るためにやむを得ないと言えるでしょうが、ポーランドでロシアの大使の顔に赤いインクを投げたことは、互いに愛し合うことからすればいいことではないでしょう。プーチン氏の行動を考えるとき暗くなります。出エジプト記に出てくるファラオを見ると、モーセが神様の力を何度示しても神様は彼の心をかたくなにされました。10度目に苦しみが自分たちのみに及んだ時やっとイスラエルの民が犠牲をささげに行くことを許しました。そのことからも人の心の傲慢さが変えられることの困難さを覚えるからです。

 話が少し飛躍しますが、わたしはこの出来事の深い底に、教会が広い意味の互いに愛し合うというイエス様の言葉に真剣に向かい合ってこなかったことが原因でもあると思います。ヨーロッパに行って感じたことは教会がすごく立派で、ある教会は金で装飾したキンキラキンの教会があったことです。そこには自分が富のところに立ってしまっているという現実があると思います。西欧社会がずっとアジアやアフリカを植民地化したこと、それに対して教会が止めることが出来なかったこと、互いに愛し合うことの大切な意味、隣人の存在を大切にすることを訴え続けなかったこと、その原因のひとつは教会が富んでしまっていたことにあると思えます。そのことを反省しなければならないと思います。西欧社会が「互いに愛し合う」の互いをユダヤ教の時代の狭い意味の中で無意識のうちに生きていたのではないか、イエス様が伝えられた広い意味のたがいが忘れられていたのではないかと思えるのです。これが今の世界の争いの深いところにあるように思えます。

 そしてまた、ロシア正教がどうしてプーチン氏の行動に異を唱えないのか、唱えているが報道されていないのか。でもナチスドイツに対するソ連の戦勝記念日の式典にロシア正教の高位と思える人が出席していた映像を見ましたが、それを見ると、やはり異を唱えていないように思えます。少し発展しましたが、ここで言いたいことは教会が「互いに愛し合う」のイエス様の言葉にもっと心を強く向けないといけないと思うのです。そのためには自分が富むことではなく、仕える姿勢を持ち続けることが大切でしょう。