2022年5月8日「わたしの羊」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録9:36~43、ヨハネ黙示録7:9~17、ヨハネ10:22~30

 今日の説教題を「わたしの羊」としました。これは今日の福音書の日課でイエス様がいわれた言葉からとったものです。復活節に復活されたイエス様が弟子たちに顕われる箇所が日課として何回か与えられました。その後に日課となったのが今日の箇所です。私たちの聖書日課は3年サイクルになっています。それぞれマタイ、マルコ、ルカ福音書を中心にし、その中にヨハネ福音書が織り交ぜられた形になっています。今年はルカ福音書が中心になっている年です。そしてこの3年サイクルの日課においてこの復活節に復活の主が現れられた箇所が日課として与えられたすぐ後にこの羊飼いのイエス様と羊としての私たちの関係が示されている個所がマタイを中心とした年と今年のルカを中心にした年に与えられ、マルコを中心とした年にはイエス様と私たちをブドウの木のたとえで示している個所が与えられています。そのことからもどんなにイエス様につながり導かれることが大切かがわかります。しかも単なるイエス様ではありません。復活された復活の命が与えられているイエス様です。十字架による贖いの死の後に復活されたイエス様につながり導かれることがいかに大切かがわかります。今日はそのことをしっかりと受け取って行きましょう。

 今日の福音書の日課の中で印象に残る二つのことがあります。一つはユダヤ人たちとの対話の中で「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ということと「わたしは彼らに永遠の命を与える。」に関連したことです。この二つ、羊と羊飼いの関係と永遠の命を与えてくださるということがわたしの心に留まることです。

 初めのことですが、イエス様を受け入れようとしないユダヤ人に対しての言葉ですが、そこには厳しさもあります。「あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」と言われています。でもここで中心的に言いたいことは「。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」ということでしょう。同じような内容はこのヨハネの10章の初めの方でも言われています。これに近いのですが、ヨハネ15章のブドウの木のたとえの後に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」という有名な言葉があります。私たちは主体性をもって自分の意志で生きていると思っています。しかし信仰に関してこの部分に触れると、主体的に自分の意志で生きているように見えて、実は大きな御手によって知られ、導かれ生きているのであるということがわかります。イエス様に出会い、不思議とその方によって生きることへと入れられているのです。多くの人は、理屈を考え、キリスト教は正しい。だからイエス様を信じるのだという思いで信仰に入ってはいないでしょう。それよりも、イエス様の言葉や、やさしさに触れ、知らず知らずにイエス様を受け入れていった人が多いのではないでしょうか。わたしも多分そのひとりであると思います。そしてこのイエス様、その言葉によって導かれ養われてきました。いつの間にか信仰において深められてきているのです。ただこのような導きの中にも大切なことがあります。それは応答性です。それは「彼らはわたしに従う。」という言葉があることです。私たちの歩みの中にはいろいろなことがありますので、疲れるときも、倦む時もあります。その時ふとイエス様に向かって目をあげ心を向ける応答性はとても大切だと思います。

 2番目のことは「わたしは彼らに永遠の命を与える。」です。さらに「彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない」と続きます。これに関連して「わたしの父がわたしに下さったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。」とあります。この終わりの「偉大であり」はむつかしいところで新共同訳では「わたしに下さったもの」が偉大であること、すなわち私たちが偉大であるととれるのですが、聖書教会共同訳ではこの偉大であるは神様にかかるものとして訳されています。どちらにも訳せるようですが、神様にかかるほうが聖書的と思えますが、新共同訳のようにとれば、羊、すなわち私たちは神様にとって、イエス様にとって特に大切な存在であると理解することが出来るでしょう。とにかく永遠の命が与えられるし、だれもそれを奪うことはできないのです。どのような暗い力もでも十字架にかかり私たちを贖ってくださった、そして永遠の命に復活されたイエス様を打ち破ることのできるものは何もないのです。全能の父なる神様とイエス様は一つであるからです。この世での人生の歩みが続く時、様々なものが襲うでしょう。もしかしたらこの世の命を奪われることがあるかもしれないし、私たち自身も何かに打ち負かされること、また罪に襲われることがあるかもしれません。しかし今日の第2の日課が示しているように、白い衣を着て神様イエス様の前に出ることが出来るのです。白い衣はイエス様の贖いの血によって白くされたのです。十字架にかかり復活されたイエス様が、羊飼いとして私たちをしっかり捕まえてくださり、私たちもイエス様の声を聞きつつそのうちに生かされて歩む者とされるでしょう。ヨハネ福音書的に言えば、今この世で生きている私たちはイエス様という羊飼いにおいてこの世においても永遠の命にあずからせていただきつつ、終わりの時にはヨハネ黙示録の日課が示すように完全な形の命の世界に入れられるのです。羊飼いのイエス様に導いていただきましょう。