2022年4月24日「平和があるように」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録5:27~32、ヨハネ黙示録1:4~8、ヨハネ20:19~31

 私たちが生きる上で、自分に対して、自分の存在に対して肯定感を持っているか否定感を持っているかはとても大切な点です。最近福音書をじっくり読んでいて、イエス様によってもたらされたもの、変わったものはどんなことだろうかと考えました。神様に対して受け取ることで変わったものはあるかと考えたのです。そしてルカ6:20の「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなた方のものである。」を読んでしばらくあれこれ考え黙想していました。これはイエス様が目をあげて弟子たちを見て言われたとなっています。ここを黙想していて二つのすごいなあということを思いました。一つは「貧しい人々は、幸いである。」ということです。私たちはこの言葉に慣れているのでああそうかぐらいにしか思わないかもしれませんが、考えてみるとこれを聞いた弟子たちは驚き何か新しいものを感じたでしょう。ふつう貧しいことは幸いではありません。むしろ否定的な存在です。その存在に対して幸いであると言われ、しかも神の国はあなた方のものであると言われたのです。否定的な存在だと思っていたものが変えられ、祝福の存在とされたのです。これは弟子たちに衝撃を与える言葉であったと思います。この言葉はイエス様の歩みの中にもよく表れています。罪人とされていた人、障碍を持っている人、その人たちは当時否定的な存在でした。しかしイエス様はその人たちのそばに行かれ、一緒に食事をされたり、癒したりされました。これはイエス様がそのような人たちの存在を否定されているのではなく、肯定し、大切なものとして受け入れてくださっていることを表わしています。福音書がわたしたちに安心感を与え、喜びを与えるのはこのところにあると思います。神様に対する思いもそうです。多分、初めのルターと同じようにファリサイ派の人々にとって神様は恐ろしい存在であったと思います。律法に違反すれば、神様に裁かれると思い、それゆえに彼らにとって神様は恐ろしい存在であったでしょう。しかし、イエス様は「空の鳥、野の花を見なさい」との話しで、私たちを守り、生かし、与えられる神さまを示してくださいました。私たちは「おはよう」「こんにちわ」の挨拶を大切にしています。これはこの挨拶によって、相手の存在を認めていることが現わされているからでしょう。
 二つ目は「神の国はあなたがたのものである」と言われた「あなたがた」という言葉です。実はマタイ福音書の同じ個所では「その人たちは」と3人称になっているのですが、ルカでは2人称の「あなたがたは」になっています。弟子たちを見て言われたとありますが、弟子の中にはヤコブのように父親が多分漁のための船を所有していたであろうと思われますので、貧しいと言えない人たちもいたかもしれませんが、中には貧しいと思っていた人たちがいたでしょう。その人たちに「あなたがたは」と言われたのです。彼らはそれを自分のこととして受け取り、神の国は自分たちのものであると聞いたでしょう。大きな喜び、自分を肯定することとなったでしょう。

 少し前置きが長くなりましたが、福音書に入っていきましょう。今日の日課は復活の日、すなわち日曜日の夕方と1週間後の日曜日の出来事です。復活の日の夕方弟子たちは皆集まって1件の家におり、戸を閉めていました。イエス様の十字架の死によって、彼らの希望は断たれたとはいえ、イエス様のつながりで弟子たちは皆一か所に集まっていました。彼らはユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけていたとあります。これはいろいろ理解することが出来ます。他の福音書で弟子たちはイエス様が復活されたと聞いてもそんな馬鹿なことがと信じなかったとありますから、純粋にユダヤ人がイエス様の仲間だとして自分たちに危害を加えに来ることを恐れて戸を閉めていたとも考えられます。また、今日の日課の前で、ペトロたちは墓が空っぽで、イエス様の亡骸を包んでいた亜麻布や頭に巻いてあった布が置いてあったということを経験していますし、マリアからイエス様を見たと告げられているので、何らかの期待を持っていたけれど、逆に自分たちはイエス様を見捨ててしまったという負い目に、こころは閉ざされていたことを象徴的にあらわしているとも考えられます。どちらにしろ彼らは自分たちの存在を否定的に考えていました。そこに復活の主が現れて最初に言われたことは「あなたがたに平和があるように」というあいさつの言葉でした。イエス様はアラム語で話されていましたのでヘブライ語にすればこの言葉は「シャローム」という言葉になります。この言葉は普通の挨拶に使われる言葉ですが、その意味は神様が共におられることからくる平和を表わしています。自分たちを否定的に考えていた彼らにとって、この挨拶の言葉は、自分たちの存在をよしとしてくださる言葉であったと思われます。彼らはこの言葉を聞きほっとして喜んだことでしょう。イエス様は真ん中に立ちとありますから、そこにいるみんなにこの言葉は伝わっていることを示しています。その時いなかったトマスに対しては次の日曜日に顕われて伝えられました。

 そしてさらに神による平和を伝えられた後に、彼らを宣教に派遣されると任務を与えられます。その時イエス様は息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われます。この息を吹きかけては創世記の初め人間を生きたものとされるために神様が息を吹きかけられたことに対応していると思います。すなわち聖霊による新しい命、創造を示しています。この出来事は創造の初めに神様が被造物を見てすべてよかったと言われたように、今罪に陥った人間がイエス様の出来事によって、すべてよしとされたということを示しています。そして罪の赦しのカギの権能を与えられて、このすべてよしとされたことを世界の人々にもたらす働きへと派遣されたのです。そしてヨハネ福音書の特徴はこの鍵の権能を一人の人ペトロに与えたのではなく、使徒たちに、もう少し言えば教会の群れに与えられたことを伝えているのが特徴です。ヨハネ福音書が復活の出来事を日曜日に繰り返して示したことは、この宣教の出来事が特に日曜日の礼拝において生じることも示していると言えます。

 この出来事を受けて、十字架の時、恐れてイエス様を見捨てた弟子たちが、今日の使徒言行録を見れば宣教するのを大祭司たちのとがめられた時、「人間に従うより、神に従わなければなりません。」としっかりと立つものに変えられたのです。今日の日課を通して、私たちは、十字架にかかられて死んで、3日目に復活されたイエス様を信じることによって、私たちは絶対的に、その存在をよしとされた者であることを覚え感謝してこの世の旅路を歩んでいきましょう。