2022年4月17日「主の呼び声」藤井邦夫牧師

礼拝説教

使徒言行録10:34~43、Ⅰコリント15:19~26、ヨハネ20:1~18

 今日はイエス様が復活されたことを覚える復活の日の主日礼拝です。死者の復活の初穂とイエス様はなられたと今日の使徒書の箇所でパウロは伝えています。キリスト教会ではイエス様の復活の出来事、もっと言えば十字架の死を受けられたイエス様が復活されたということを、最大の出来事として覚え、記念しています。それがどんなに大きなことかは、教会がこの復活された日曜日を主日、安息日としたことに顕われています。ユダヤ教では神様が天地を創造されて、7日目の土曜日に休まれたことを覚えて、土曜日を安息日としました。この大切な安息日を日曜日に変えたということは、どんなに日曜日に復活されたことが大きなことであったかを示しています。イエス様の復活を神様の天地創造と並べうるものと考えたのだと思います。イエス様の復活がどんなに大きいことかは、また、弟子たちが、聖霊降臨後に、宣教活動していったとき、自分たちはイエス様の復活の証人と呼んだことからもわかります。
 死人の復活の初穂であるイエス様の復活は、私たちの目の前で生じる自然の出来事を超えているものでもあります。ですからそれは科学的に証明することではなく、信仰によって受け入れることだと思います。

 聖書からイエス様の復活についてみてみたいと思います。4つの福音書において、イエス様の復活に関する記述において、私は2つの大きな共通点があるとみています。一つは4つの福音書ともイエス様の復活を墓が空っぽであったことでまず伝えているということです。二つ目は今日の説教題にもしていますが、まず、主から呼びかけられているということです。
4つの福音書とも、イエス様の復活の姿を見せるのではなく、まずは女たちが行ったところ、墓を閉ざしている石が取り除けられていて、かつ墓は空っぽであったことを伝えています。イエス様の亡骸が収められている墓に日曜日の早朝、女たちが行ったということは、イエス様は確かに亡くなられて、墓に葬られたのだということを私たちに伝えています。それは十字架の時に、イエス様が息を引き取られたと伝えるだけではなく、そのあと墓に葬ったことを伝えたり、ヨハネ福音書では、死を確かめるために十字架上のイエス様の胸をやりで刺したということを伝えることによって強調されています。復活の朝4福音書とも墓のことを伝えているのは、イエス様は確かに死んで葬られたとだということを伝えています。しかしその墓が空っぽになっていたのです。死体の置かれているところが空になっているのです。そのことは死が無意味となったことを示していると思えるのです。
次に主から呼びかけられていることを見てみましょう。復活の出来事を見ると、4福音書とも共通しているのですが、弟子たちが復活のイエス様だとイエス様に声をかける、そのようなことはないのです。まず、イエス様のほうが弟子たちに声をかけられ、そしてそのあと弟子たちはそれが復活のイエス様であることに気付くのです。これは興味深いものだと私は思いますし、当たり前かもしれません。エマオ途上での出来事でも二人の弟子たちにまずイエス様が話しかけられて、そしてその後、弟子たちは気付きますし、皆が集まっているときにも部屋の中に入ってこられたイエス様が「あなた方に平和があるように」と声をかけられますし、ヨハネ21章の漁に出ていた弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか」と声をかけられ、網を入れさせられて大漁を経験した後、弟子たちはイエス様だと気づいています。今日の福音書の箇所でマリアに対してもそうです。「婦人よなぜ泣いているのか」と天使たちと同じ言葉をかけられた後、まだ気付いていないマリアに「マリア」と声をかけられ、マリアはイエス様だと気付くのです。
これは当たり前のことかもしれません。復活とは自然を超え、また私たちの思いを越えた出来事ですから、それは弟子たちにも同じことであったでしょうから、復活のイエス様の方から声をかけて、自分が復活した主だということを示されたのだと思います。しかもすぐに気付かない彼女に優しく「マリア」と声をかけられ、気付かせてくださったのだと思います。
今日はこの「主の呼び声」を特に覚えたいのです。復活の主が弟子たちに声をかけられたということは、時空を超えて今も私たちに声をかけてくださること覚えてもいいと思います。私たちが今日復活日の礼拝にあずかっているということは、復活された主イエス様がわたしたちに「・・・さん、わたしだよ。わたしは復活したんだよ」と声をかけられているということを覚えることが一番大切なことだと思います。

最後に使徒書から一つ見てみたいと思います。今日の第2の日課でパウロは復活に関連して次のように言っています。「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」。また終わりの節で「最後の敵として死が滅ぼされます」と。
もし私たちがこの世での生がすべてであると考えるなら、今生じているウクライナでの出来事、その戦禍で死んでいった多くの人々、またウクライナのために戦って死んでいった多くの兵士たちは全く惨めな存在と言えるでしょう。また、そのようなことは決してこの世でもないと思いますが、プーチン氏が力でウクライナをねじ伏せて、領土を拡大して、それで終わりなら、全く私たち人類は惨めな存在だと思います。しかし、聖書はこの世の見える世界がすべてであるとは言っていません。イエス様の復活が伝えることもそうです。神様がおられること、そして死を打ち破られて、復活があること、それゆえにわたしたちは正しいと思えることのために自分が不利な立場に立とうとも歩むことが出来るのです。きっと神さまはわたしたちを導き、力付けてくださることでしょう。