2022年4月3日「こころからの行為」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ43:16~21、フィリピ3:4b~14、ヨハネ12:1~8

 今日の福音書の日課は、イエス様がいよいよ十字架にかかられる出来事が生じるエルサレムに入られようとされた前の出来事、べタニア村での出来事です。ここにはマルタとマリアの姉妹の妹のマリアのイエス様への行為がしるされています。この出来事を見る前に、もう一つのことを見ておきたいと思います。
 それはルカとマルコに記されていること、もうエルサレムに入城された後の出来事です。より十字架の時が近づいているときです。神殿の中のさい銭箱が見えるところにイエス様は座っておられました。そこからさい銭をささげている人たちを見ておられます。多くの人たちがささげています。金持ちそうに見える人は誇らしげにたくさんの献げものをしています。そこに一人のやもめがささげているのにイエス様は目を止められました。彼女はレプトン銅貨2枚をささげています。レプトン銅貨は大体50円ぐらいとみていいでしょう。彼女のささげている姿から、それが彼女にとってどのようなものかをイエス様は理解されました。それは彼女の持っているものすべて、生活費のすべてをささげていたのです。やもめはユダヤの世界では弱い立場の人の代表的な存在でした。遊ぶお金のすべてではなく、生活費のすべてです。これをささげればもうパンひと切れも手に入れることはできません。イエス様はこの姿を見て感動されました。このやもめはこれからどう生活したらいいか、そのすべてを神様に任せた行為であったのです。
 この出来事を見て、イエス様は褒められただけでなく、ご自分も励まされたのではないかと思います。ゲッセマネの園で、この杯を取り除いてくださいと、激しい苦しみの祈りをされたのですから、エルサレムに入り、もう十字架の出来事が目の前にある、その不安も感じておられたに違いありません。そこに一人の貧しいやもめの姿があり、自分のすべてを神様に委ねている。これはイエス様にとって、十字架への道、自分の命を神様に差し出されるその道にとって、大きな勇気付けとなったのではないかと思います。

 今日の福音書の日課に入って見ましょう。今日の箇所は十字架の刑が行われるエルサレムに入城される直前の出来事です。エルサレム近くのべタニアのラザロの家に行かれました。ラザロは死んでいたのをイエス様によって生き返られてもらった人物ですし、その家にはマルタとマリアの姉妹がいました。そこでの夕食の時でした。マリアは高価なナルドの香油を持ってイエス様のところにやってきました。この香油の出来事はルカ福音書では罪深い女の出来事とされています。マルタとマリア姉妹のマリアがどのような人であったかは諸説がありますが、イエス様の足元でイエス様の話を喜んで聞いていたともありますから、マリアにとってイエス様の言葉は大切なものとしてあり、自分はその言葉によって慰められ、生かされる、そのようなものであったでしょうし、自分の兄弟のラザロを生き返らせてくださった方です。神様からの方、自分にとって大切な方としてマリアはイエス様を迎え、そして自分にとって大切なナルドの香油を持ってきてイエス様の足に塗ったのです。どのぐらい高価かというと、後でユダが300デナリオンで売ってと言っていますから、300デナリオンの価値があったでしょう。1デナリオンは労働者の1日分の給与として聖書に出てきますから、この香油は労働者の約1年分の給与の価値があったのです。この香油が高価であることそのものが意味を持っているのではなく、マリアがイエス様のために心からこの香油を用いたことに意味があるでしょう。そしてその心に意味があるでしょう。そのことはマリアが香油を塗ったイエス様の足を自分の髪の毛でぬぐったとあることに顕われています。私はそのようなことをしてもらったことがありませんので、どのように感じるかはわかりませんが、女の人にとってそのような行為は大変なもの、こころからのものであることを示しているだろうとは想像できます。そしてこの行為をイエス様は自分の葬りのためのものであると理解してくださったのです。これからエルサレムに入り、十字架の死を受けて死ななければならない。その葬りのためとして、マリアの行為を受け取ってくださったのです。この事はイエス様は十字架という歩みをされるうえで大きな励ましともなったと思います。人々に捨てられる、弟子たちさえも逃げてしまう。そのような歩みの中でも、小さな存在かもしれませんが、二人の女の人の存在と行為はイエス様の歩みの中で大きな励ましになったと思えるのです。

 受難節の歩みの中で、私たちは自分の罪の存在、その大きさに気付くこと、また悔い改めて神様に心を向けることを覚える大切な時だと思います。それと同時に自らの罪だけではなく、先週は神様の深い愛を放蕩息子の弟や兄に対する父親の行為や言葉によって知ることの大切さが与えられましたが、今週はわたしたちがたとえ的外れかもしれないが、こころから神様、イエス様を愛して行うことを神様やイエス様は喜び、祝福し、意味のあることとしてくださることを覚えることも大切であると思います。
 今週の使徒書を見れば、イエス様によって贖われたものが終わりの時に向かってひた走っているときであることがわかります。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全なものになっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。」私たちはイエス様によって命の世界に入れてもらったものです。そして終わりの時の完全な復活の姿へと向かって歩んでいるのです。私たちは限られたものですし、み心を完全に理解してそのように歩むことが出来るとは限りません。今日の福音書に出てきた女性のように、こころからささげるならば、たとえ的外れではあっても、神様は豊に用いてくださるのです。そのことを信じて、この世の旅路を歩んでいきましょう。