2022年3月19日「自らに気付く時」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ55:1~9、Ⅰコリント10:1~13、ルカ13:1~9

 今日の福音書の日課を見ると、不幸な出来事が二つあげられていますが、人々はこの不幸な出来事を見てあれこれ噂をしていたと思われます。その主なものは、このような不幸な出来事は何か罪の結果と考えて、不幸にあった人たちの罪深さをあれこれと噂していたのでしょう。それに対して、イエス様は、その人たちの罪深さを噂するより、自分たちの罪深さに気付くことの大切さを言われていると思います。そして後半のたとえ話で、今は神様の愛による忍耐の時であって、神様の裁きの前に立たされているとの緊張感を持つことが示されています。
 この事を考えるとき、やはり今はウクライナの出来事、プーチン氏によってロシア軍がウクライナに攻め込んでいることが頭に浮かびます。世界のほとんどが、平和を願ってプーチン氏の行動を糾弾しています。そしてできるだけウクライナの人たちに平和が来るように、また無理やり戦いに出されたかもしれないロシア兵の人たちが残虐に民間人の人たちの中に砲弾を撃ち込まなくて済むように、このプーチン氏からくるウクライナ侵攻が終わるように、糾弾していかなければならないと思いますが、同時にこうも思います。西欧諸国がこのプーチン氏の行動を糾弾するとき、自分たちも世界の弱い、まだ発展していない国々を植民地化していった歴史を持っている。そこの国の人たちの人権を無視して植民地化していった歴史を持っている。日本も、実際には自分の国を拡大し、植民地を持つために、太平洋戦争に突き進んでいった。そのような歩みを持っているのだというところに立ってからの、糾弾でないと真の平和のための歩みにはならないと思います。多くの人は何を馬鹿なことを言っていると考えるでしょう。でも、弱い立場の人たち、また民族を自分の利益のために用いたということを認識し、そこへの反省がない限り、本当の意味の平和の実現は来ないと思います。この問題は取り上げるともっと長々と続くと思いますので、今日は自らの罪に気付くということをこれによってみてみることとして、次に、プラス面での自らに気付くことを見てみたいと思います。

 今日の旧約聖書の日課を読み、説教のためにあれこれ思いめぐらしていました。その時にあることに気付きました。それはここの内容の主なことはイエス様の言葉、マタイ福音書の6章にある新共同訳で「思い悩むな」と題されている個所と同じ内容であるということです。旧約聖書は固い言葉で「穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め」と表現されているけれど、ここで言われていることは神様が養ってくださること、しかもお金を払うことなく養ってくださることを伝えています。イエス様はもう少し柔らかい言葉で表現されています。空の鳥、野の花を見なさい。働きもせず、紬もしなくても食べ物を与え、美しく着飾っていてくださる。これらはみな神様はわたしたちを生かし養っていてくださることに気付き、神様が生きて働いていてくださることに信頼し、神様のところに来て、もっと大切なものを受け取って行くようにと教えていると思います。旧約では「聞き従って、魂に命をえよ。」とか「主を尋ね求めよ、見出しうるときに、呼び求めよ、近くにいますうちに。」と表現し、新約のイエス様の言葉では「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」と言われています。これらを見ると、わたしたちは日々神さまによって支えられ、与えられ、生かされている。そのことに気付き、さらに、私たちをもっと生かすもの、霊的な命があること、それを求めて生きるようにと旧約も、イエス様の言葉も示していると思います。私たちが漫然と生きているのではなく、神様が生きて働いていてくださること、神様によって支えられ、与えられ私たちは生かされていることに気付いて、神様の国に心を向けて生きていくようにと示しているでしょう。しかも一般的なことではなく、自分自身に対してです。

 さらに、今日の使徒書の日課も私たちにプラスな面で気付く様にと促していると思えます。それは10:4「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについてきた霊的な岩からでしたが、その岩こそキリストだったのです。」という箇所です。ここはエジプトを脱出したイスラエルの民がシナイの荒れ野を進んでいた時のことを述べていて、彼らは神様によってマナという食べ物、岩から流れ出る水によって養われたのですが、それを神様によって導かれていたとこのように表現しているのですが、実はこの箇所はコリントのキリスト者たち、もっと言えば今生きている私たちキリスト者たちに対して、私たちは霊的な岩キリストによって生かされ導かれていることをパウロは言いたかったのであると思います。私たちは人生という信仰の旅をしているが、キリストという霊的な食べ物、飲み物によって生かされ導かれている。だから昔のイスラエルの人たちが躓いたような歩みをしないで、生かされ導かれていることに気付いて歩み通すようにと述べています。そして大切なことは、それを一般的なこととして理解するのではなく、自分のこととして受け取って歩むようにということが今日の日課から聞くべきことでしょう。
 私はこの3月一杯で牧会委嘱としての働きを終わります。現役の時から数えると45年間です。先日阿部勝さんと話しているとき、先生は4月以降どのように生きるか決めておられるかとの質問がありました。わたしはありますと答えました。その内容は今まで牧会をしている45年間は聖書を他の人に伝えるために読んでいた。むろん自分のためにも読んでいましたが、どうしても他者に伝えるため、説教のために読んでいました。しかし今度から自分が信仰者として生きるため、そのことを中心に聖書を読み直してみたい。まだ説教奉仕はしますが、牧会からはおります。だから自分が信仰者として生きるという心から聖書に聞いてみたい。まず福音書、それとパウロ文書をじっくりと読み、旧約からの通読もする。この3点をしっかりしていきたいと思っていると答えました。
 この事で何をお伝えしたいかというと、今日の日課はイエス様が霊的な岩として私たちと共に歩んでいてくださるということを自分に対して、自分にとってもそうであるということを、しっかりと受け取ることが、今日の聖書の箇所から聞くべきことであるということです。聖霊の導きがわたしたちに豊かにありますように。