2022年3月13日「ああ、エルサレム、エルサレム」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記15:1~12、17~18、フィリピ3:17~4:1、ルカ13:31~35

 今日の日課を見ると神様、イエス様の深い悲しみ、愛、憐みがテーマであるように私には思えます。このエルサレムに対する嘆きはルカ福音書では19;41節以下にもあります。そこではオリーブ山を下り、エルサレムに入る途中の出来事として記されています。オリーブ山の坂の向う側にエルサレムが城壁に囲まれて見えます。その丘の途中、エルサレムに入られる前に、エルサレムを見て嘆かれたというのです。そこには今でも嘆きの丘と呼ばれているところがあります。エルサレムは神様の都とされていますし、ユダヤ人を代表する町です。ユダヤ人だけでなくイスラエル人を代表していますし、もっと言えば人類を代表していると言えるでしょう。神様によって特別な町として選ばれた町、そこが神の都と言えない、神に反する歩みをする人々で満たされている。それゆえに、その都を見てイエス様は嘆かれているのです。イエス様はそこで「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と嘆いておられるのです。

 今、私たちが一番関心をいだいているのはコロナウイルスと同時に、いえそれ以上に今、関心をいだいているのはウクライナ情勢ではないかと思っています。ロシアがウクライナに侵攻して行った初めごろ、町の人にインタビューしている中で印象的なものがありました。それは、こんなこと、戦争が起こるとは夢にも思ってもみなかったという感想でした。それはわたしも同じ思いを持っていたからです。第2次世界大戦を経験して、戦争は絶対にダメだと言う思いが人々の中に生まれていました。ヒットラーの存在、そこから来る人類に対する悲惨な出来事、それを経験して、あのような独裁者、それは完全に否定されていました。戦後、わたしの若いころは戦争の映画がたくさん作られ、その悲惨さを植え付けていました。そして戦争と言う国家の問題より、男女の恋愛に心を向ける映画が多く作られていました。その中で育ってきて、そして日本と言う中で育ってきたので、戦争とは思いもよらなかったのです。
 また、核においても、ソ連とアメリカの冷戦時代、核軍拡競争がありましたが、その時も核戦争が生じれば地球が終わりと言うことを、「猿の惑星」と言う映画などで人々に伝え、核抑止力と言う言葉で、強大国は核を持ち続けましたし、北朝鮮は核を持とうとしていますが、世界の意識では核を使うことは考えられませんでした。
 
 ところが時代は変わっていきます。わたしがよく士師記を出しますが、そこではわたしの計算では70年サイクルぐらいで、同じことが繰り返されるのです。平和が来ると、堕落が始まり、苦しみが与えられると神様を呼び求め、神様が助けてくださる。しかし、また平和が続くと、堕落が始まるのです。何故聖書はある意味では退屈なこのような事を繰り返しているものを伝えるのかと思っていました。第2次世界大戦後70年が経つ前後、いえもう少し早いかもしれませんが、ヨーロッパではネオナチと言われる人たちが生じてきました。難民などで国に困難が来ることを否定して、自分たちを守ろうとする人たちです。それでもヨーロッパは色々な人種を受け入れて歩んではいます。日本よりはより進んでいるでしょう。でもアメリカにトランプと言う大統領が生まれました。強大な力を持った国が自分勝手な歩み、自国のみを第1とするアメリカファーストと言う考えで歩む大統領が生まれて、せっかく作られていたアメリカに対する信用を台無しにしてしまいました。トランプ政権は4年で終わり、ホッとさせられましたが、まだ影響力を持っており、アメリカもこのような危険性を持った国であること知らしめています。中国も力を拡大しています。習近平と言う指導者は少し隠しながら、それでも力の拡大を、中華思想をもって歩んでいるように思えます。そしてプーチン氏の今回の行動です。年齢からして、彼に大きな影響を与えているのは第2次世界大戦の戦争と言う悲惨さではなく、ソ連崩壊からロシアと言う国が生じた時の経験ではないかと思います。国が混乱し、分裂していく。同じ民族も分かれていく、この時の悔しさではないかと思います。そして今米国を中心とした西欧諸国が、自分たちの中にじわりじわりと迫ってくる。この危機感ではないかと思います。
 少し長々と述べましたが、そこで何が言いたいかと言うと、イエス様が「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれたことは、昔のイエス様の時代のものだけではないと言うことです。神様、イエス様は「ああ、人類よ、人類よ」と今嘆かれているということです。同じことを繰り返しているのです。「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」と今の私たちに向かって嘆いておられることです。

 では今日の日課から何をわたしたちは聞くべきでしょうか。それは今日の福音書でイエス様が「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。」と言われていることです。これは当然十字架の歩みを表しています。またパウロは今日の箇所で「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」涙ながらにパウロが訴えているキリストの十字架に立つ事、立たせてもらうことです。宗教、神様、キリストの信仰の上に立てばよいと言うのではありません。その場合でも力の上に立つことは多いのです。弟子たちが最後までイエス様に求め、十字架前にイエス様を見捨てたのも、神様の権威、力を求めたからです。先週も言いましたが、ニューヨークツインタワーのテロの時、ブッシュ元大統領が訴えたのも悪魔に対する力による戦いでした。ブッシュ元大統領もクリスチャンでした。熱心なクリスチャンであったと思います。プーチン氏も共産主義の考えより、キリスト教の正教会に属していると言われています。力に、それが神様の力であっても、力に心が行くのではなく、今日聞くことは、イエス様の十字架のことであると思いますし、そこが表している、仕える事、愛に立つ事であると思います。イエス様が「ああ、エルサレム、エルサレム」と嘆かれているのは、今の私たちに対してでもあること。イエス様の十字架の意味をしっかりと受け取ること、その事を今日受け取って行きましょう。