2022年2月20日「イエスの教え」藤井邦夫牧師

礼拝説教

創世記45:3~11、15、Ⅰコリント15:35~38、42~50、ルカ6:27~38

 わたしは創世記は本当に興味深い箇所であると思います。聖書の初めにおかれているだけあって、聖書が顕す神さまの本質がそこに多く、そしてすでに示されていると思います。まず神様はすべてを創造されたこと、存在するすべては神様の被造物であることが示されています。これは重要な事ですので、神様とのイスラエルの歩みの中で、重要な時によく神様はイスラエルの民にこのことを伝えています。たとえばイザヤ書でバビロン捕囚からの解放を告げるとき、解放を告げたすぐ後に、創造者の神を示しています。またヨブ記において苦しみの中から叫ぶヨブの前に神様が現われられた時、神様はヨブに対して、創造者の神であることのみを伝えられています。ですから、わたしたちの信仰において、創造者の神と言うことがどんなに大切であるかがわかると思います。 また神様は人格的な神様であることをアブラハムを呼び出し、アブラハムとの具体的なかかわりの中で示されています。またそこで神様は真実な約束を必ず守られる方であることが、アブラハムに祝福を与え子孫が繁栄することを約束され、それを果たされることで示されています。
 そして今日の日課の箇所ではヨセフの出来事において神様の深い摂理が示されています。罪の中にある人間が、さまざまのことをする。暗い行いもするし、その中で人間にとって不幸が襲ってくる。しかし神様はその不幸な出来事を通しても、神様のみ心、イスラエルの民を祝福し、子孫を増やすと言う約束を実現される。そしてそのために人間を用いられることが示されています。ヨセフの少しのおごりの心と、兄弟の嫉妬によって、ヨセフはエジプトに売られ奴隷とされ、さらに主人の妻のよこしまな心と行いにより、牢屋に入れられてしまいますが、神様が彼に与えられた夢を解く力によって、エジプトの大臣となります。エジプトでの7年間の大飢饉に対処するため王によって大臣とさせられたのです。そしてこれは、カナンの地にあった父ヤコブや兄弟たちを飢饉から救うことにもなり、神様のアブラハムへの約束は成り立っていることが示されることにもなりました。ヨセフはこの神様の深いみ心、摂理を理解して、兄弟たちを赦してやるのがこのヨセフ物語の重要なメッセージです。

 イエス様の福音の時になりました。神の子が人間となってこの世に来られた。しかしユダヤの民、特にその指導者たちの、狭い神様への理解、また暗い思いによってイエス様を十字架に架けて殺してしまった。しかしこの出来事は神様の深いみ心の現われであった。人間の罪の贖いのため、イエス様が十字架の刑罰を受けられた。イエス様の十字架の死はこのような神様の御心の出来事であった。これが福音書が私たちに伝える中心的なメッセージです。そこには、神様の敵をも赦される深い愛の姿があります。罪の中にあるもの、すなわち神様の敵と言えるもの、そのものを怒りによって、正しさゆえの怒りだと思いますが、怒りによって滅ぼすことをせず、忍耐し、そのものがまことの命に生かされるように願い、自らの子を送り、しかも十字架の死をも与えられたのです。その事によって人間の罪を根本から赦されたのです。アブラハムに約束を与えられた、アブラハムを祝福の源とされる(口語訳では基)と言うこと、これはイスラエルを越えた人類への約束と見てよいと思いますが、その事を実現される真実な方であることが、イエス様の出来事で示されてもいるのです。神様は絶対的な正しい方ですから、神様の裁きは正しい裁きだと思いますが、しかし性急に裁くことをせず、忍耐を持って歩まれ、そしてイエス・キリストの出来事を人類に与えられたのです。

 今日の福音書の日課は「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」で知られる有名な個所です。この箇所は素晴らしい教えであると私たちは思うと同時に、自分を見て、とてもできないことだと思ってしまう個所です。わたしたちは今日の主日の祈りの中にその一部があった、アッシジのフランチェスコの平和の祈りを見て感動し、またある意味では喜びを持ってその祈りを一緒に唱えます。それはその祈りが実にすばらしいものであると理解するからです。そう自分が生きることが出来たら、どんなにいいかと思うからです。でも現実の自分を見るとすぐにがっかりしてしまいます。

 わたしは今日の日課を説教として語るとき、そこから聞き取ったのは、この福音書の箇所はわたしたちキリスト者の、新しく生まれた者たちの生きる規範と受け取るのではなく、そこへの招きと受け取ることが大切ではないかと思いました。キリスト者として生きるとき、守るべき規範ではなく、その命への招きであると。
 ヨセフが苦しみの中を歩み、そしてエジプトの大臣とされた時、神様の深いみ心に接して、感動したことでしょう。そして自分の役割、イスラエルの民が祝福の源になるとを受けて、自分の父ヤコブやその家族が生きながらえるために、大臣としての働きが出来る事を感謝して、兄弟を赦すことを受け取ったと思います。
 同じように私たちも神様がイエス様を通して、人類を救おうとされていること、そのためにイエス様の在り方、苦難を受けて十字架の死を受け取る、その事を与えられました。そのイエス様の働きを受けとって生かされた私たちは、神様の深い摂理の働き、暗さの中にある人類を救おうとされているその働きの一端を担うこと、その在り方に生きることへと招かれているのだと思います。自分を良く思っていない相手に対して祈ること、また愛すること、そこへと招かれている。完全にできなくても、そこに招かれていることを知れば、そこに立とうとし、立てるかもしれない。そのように生きられたイエス様がおられる。そしてその御心はすべての人が救われることである。そのために忍耐し、自分を迫害するものをも救われるために「彼らをお赦しください」との祈りを持って十字架にかかられた。そのイエス様の命に生かされ、その救いがすべての人にいきわたるように、わたしたちを働きへと、その命に生きるようにと招いてくださっているのです。
確かにその歩みで苦しいこともあるかもしれない。もしかしたら死を受け取ることがあるかもしれない。しかし、その時私たちの支えとなることは、朽ちないものに復活すると言うパウロの言葉です。たとえ、この世の死を受け取っても、朽ちない体に復活すると言うことは根本的な励ましとなることでしょう。