2022年2月13日「幸いと呼びかけられるイエス」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ17:5~10、Ⅰコリント15:12~20、ルカ6:17~26

 わたしたち信仰を与えられた者たちは、神にとらえられた者たちです。イエス・キリストにとらえられた者たちです。自分自身によってではなく、神様に導かれて初めて、真実な道へと導かれる者たちです。
 今日の説教題を「幸いと呼びかけられるイエス」としましたが、今日の福音書の日課も、旧約聖書の日課にもこの幸いが示されているからです。しかし同時に不幸も示されています。旧約聖書にはまず「主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし/その心が主を離れ去っている人は。」と言い、最後の方には「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」とまで言われています。福音書も同じで幸いを述べた後に、「富んでいるあなたがたは」「今満腹している人々、あなたがたは」「今笑っている人々」は「不幸である」とイエス様は言われています。この不幸であるという内容は、人間や、その豊かさに心が行って、その心が神様から離れ去っているものを不幸と言われています。
 分かりにくいかもしれませんが、個人的な経験を話してみます。わたしは大学に入ったころに、ラジオでショパンのピアノ協奏曲を聞いて感動しました。こんなに心の内面を美しく表現する世界があるのだと感じました。それから内面的な苦しい時代が続きましたが、その間に神様との出会いを経験しました。それまでいろいろなものに心を奪われていましたから、神礼拝と偶像礼拝の問題がわたしにとって大きな課題となっていました。教会に行くと不思議と心が落ち着くのですが、その当時京都にいましたから、神社仏閣など観光地が多くあります。その観光地、神社やお寺に行くと心が不安にまた苦しくなっていました。また、わたしは音楽を聴くのが好きでしたかが、その当時、ロマン派の曲を聞くと心が苦しくなっていました。それは恋愛の問題もあったかもしれませんが、美しい旋律に心が揺さぶられて苦しくなっていたと思います。わたしはこれらの苦しくなることは偶像礼拝の問題だと理解しました。それゆえ、神社仏閣にも行かなくしたし、ロマン派の曲もできるだけ聞かないようにしました。それから牧師になり、偶像礼拝の問題はだいたい解決し、信仰生活を歩んでいます。色々なものも神様から賜物として与えられたものとして感謝して受け取るようになっています。ところが、最近のことです。夜退屈な時ユーチューブで音楽を聴くことを始めました。そしてある夜またショパンのノクターンを集めたもの、何回か繰り返して演奏しているものに出会い、それを聞いていました。若い時に聞いた感動をまた思い出しながら、ピアノの一つ一つの旋律が何と心の思いを伝えているかと感じながら楽しく聞いていました。何日も何日も気が向いた時聞いていたのです。ところがある日また心に不安が生じたのです。わたしの理解ではその不安は偶像礼拝から来る不安でした。神様から頂いたもの、神様の御手の中にあると思いながら聞いていたのが、そのものが大きくなって、神様から飛び出し、わたしの中で大きくなったのでしょう。わたしは今年7月に77才になり、喜寿を迎える者です。人生の経験、信仰の経験を多くしてきて、偶像礼拝を理解し、戦ってきたはずですが、それなのにこの不安に襲われているのです。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」と言うエレミヤ書の言葉が理解できます。富の中にいることが次第次第にその富に支配されるようになって、人間を堕落させる可能性を与えるものだと思われます。

 今日の中心的な「幸い」の方に入ってみましょう。エレミヤ書では「祝福されよ、主に信頼する人は」と言って主に信頼するという条件を入れていますが、福音書ではイエス様は主に信頼する人は祝福されると直接言っておられません。そうではなくて、この世的にはむしろい祝福ではないと思える人たちに対して「貧しい人々は、幸いである」「今飢えている人々は、幸いである」「今泣いている人々は、幸いである」と言われています。深いところではユダヤの神様を知っている世界においては、このような、この世的にはマイナスな状況におかれている人たちは、主に信頼せざるを得ないと言うことがあるかもしれませんが、しかし、ここで示されていることは、その事よりも、神様の在り方、神様の恵みと言うことに焦点があると思います。神様はイスラエル民族とのかかわりの中で、困難にある彼らの叫びをいつも聞いてこられました。出エジプトの時然り、バビロン捕囚の時然りです。そして極めつけは士師記の記述です。そこには繰り返し、繰り返し、平和の中にいると神様をないがしろにする民の姿があります。そして苦しみが与えられると、神様に助けを求めて叫ぶのです。神様はいつもこの叫びにこたえておられるのです。同じような事が何回も繰り返されるのです。神様は忍耐強く助けの手を差し伸べられます。いかに神様が恵みに満ちあふれた、愛の方であるかが分かります。そしてこの恵みの神様の在り方はイエス様によってあらわされます。先日の日課にあった通り、ナザレの会堂でイエス様はイザヤ書の箇所「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。」と言う箇所を読まれ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と言われました。そしてその後人々の痛みを癒して来られたのです。今日の日課の初めの方は「おびただしい病人をいやす」と言うことを伝えているのです。そして今日の日課の後半には「幸いである」がイエス様によって言われているのです。恵みに溢れた神様の本質がイエス様によって顕われていることが示されています。そのイエス様が「幸いである」とこの世的に痛みのある人たちに向けて、呼びかけられているのです。なんと幸いなこといでしょう。

 ルター学者の徳善義和先生が以前ルターの事を「神の乞食」として本を書かれました。「乞食」と言う言葉は現在差別語で使われませんがルターの本質をよく表している言葉です。神様のみ言葉をいただくことでしか生きていけない存在です。神様のみ言葉をいただくことによってのみ充分に生きていける存在です。神様の恵みによってのみ生きていける存在です。わたしたちもまた神の乞食として信仰生活を歩んでいきましょう。