2022年2月5日「呼ばれるイエス」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ6:1~8、Ⅰコリント15:1~11、ルカ5:1~11

 今日の説教題を「呼ばれるイエス」としましたが、それは今日の旧約聖書の日課も福音書の日課も召命の出来事が与えられているからです。旧約聖書はイザヤが神様から呼び出され、預言者として立たされた時の出来事ですし、福音書もイエス様がペトロたちを使徒として呼び出された時の出来事を伝えています。この日課の箇所を見ると、共通点があることが分かります。また違いもあることが分かります。
 イザヤはとてつもない宗教的な体験をします。多分イザヤが神殿にいた時の経験でしょうが、「高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。」と言うのです。イスラエルの民にとって、聖なる神様をじかに見ると言うことはとんでもないことで、そのものは死ななければならないと思われていました。その神様が天の御座に座しておられるのを見たのです。またセラフィムと言う存在がその周りを飛び交い「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う。」と唱えています。そのとき神殿の入り口の敷居が揺れ動き、神殿は煙に満たされたと言います。この表現は旧約の中では神様の臨在を力強く表した言葉です。この出来事を経験したイザヤには次の反応があります。それは自分が罪深いものであることを思い、滅びなければならない存在であると言うことです。そしてそれは自分だけではなく、民族、広く言えば人間そのものもそうだと言う思いです。それを「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」と表現しています。ここまでは福音書と同じなのですが、ここから違う内容になります。このように低められたイザヤのもとにセラフィムが火箸に炭火を持って飛んできてそれをイザヤの唇にあて。清めたのです。そして、「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」といいます。その後神様が「誰を遣わすべきか」と言われた時イザヤは手を挙げたのです。

 福音書はゲネサレト湖畔での出来事でした。そこには漁を終えたペトロたちが網を洗っていました。群衆がイエス様の周りに押し寄せてきたので、ペトロに舟を出してくれるように頼みます。そして岸から少しだけ漕ぎ出したところで群衆を教え始められます。話終わられた後、ペトロに舟を沖に出して漁をするように言われます。ペトロは今まで働いても魚は取れなかったのだけれどもイエス様の言葉としてそれを受け取って、舟を沖に出して網を下ろしました。するとおびただしい魚が取れたのです。もう一艘の舟に助けを求めても魚の重みで舟が沈みそうなほどでした。この出来事をペトロは特別な事、神様からの出来事であると感じます。そしてイザヤと同じように「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』」と言います。神的な出来事を前にして、神様の力を持ったイエス様を前にして、自分が罪深いものであると感じたのです。イエス様はそのペトロを人間をとる漁師にすると呼び出されました。この呼びかけに対してペトロたちはすべてを捨ててイエス様の後に従います。すべてを捨ててついて行ったのだけれど、イザヤに対してのように咎が取り除かれ罪が赦されたということはありませんでした。罪の中にあるペトロたちは、その活動の中で、だれが一番偉いかと言うことに支配されたり、いざとなったら裏切る弱い人間だけれども、そうではなくて自分は絶対について行けると自信を持ったりしていました。

 ではペトロたちに対して、イザヤに与えられたように炭火を唇に当てられ、咎が取り除かれ、罪が赦されると言うことはどのように与えられたのでしょうか。それは今日の使徒書であるⅠコリントの日課にある、パウロが伝えた福音と言う内容にあります。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」十字架上の死、そして復活です。罪の贖いとまことの命にあずかることです。ペトロたちはイエス様の十字架の死と、復活の主を経験して、使徒としての働きへとまことに派遣されていったのです。イエス様の十字架の死を経験し、その時の自分たちの弱さも経験し、しかし復活された主、まことの命である主に出会い、彼らは使徒として立たされました。自分が強いものではなく、主によって生かされた者として歩んでいったのです。聖霊の導き、働きによって歩んだと言えるでしょう。
 その事はヨハネ福音書が次のように伝えています。食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。この対話の時のペトロは十字架前の時と明らかに違っています。自分の方に中心があるのではなく、イエス様の方に中心があり、イエス様によって立っている姿がそこにはあるのです。

 私たちはこのような出来事を経験しているのでしょうか。そうです、経験しているのです。それは洗礼を受けることによって、この事を受け取っているのです。イエス様に呼び出されたものとして歩んでいきましょう。