2022年1月30日「肉による迫害を受ける方」藤井邦夫牧師

礼拝説教

エレミヤ1:4~10、Ⅰコリント13:1~13、ルカ4:21~30

 わたしたちは、わたしたちの前に神様の豊かな恵み、また愛が示されていますが、それに気付いて、それを受け取って歩むと言うことは当たり前に出来る事ではありません。なぜなら、神様の恵み、愛は目に見える形で私たちの前にあらわれているわけではなく、そこには信仰の目で見る必要であるからです。一方、わたしたちの目の前にあるのは肉の思いやこの世の困難さです。この事はすぐに私たちにはわかる現実です。その事はヨブ記の中で若者のエリフと言う人がヨブたちに対して語っている言葉の中によく現われています。37:21,22に「今、光は見えないが/それは雲のかなたで輝いている。やがて風が吹き、雲を払うと北から黄金の光が射し/恐るべき輝きが神を包むだろう。」と語っています。これは太陽と雲の関係を言っていると思いますが、曇りの日であっても確かに太陽は雲の後ろに存在するのですけれど、目に見えるのは雲です。曇りの日は雲の後ろにある太陽の存在は肉体の目だけでは知る事は出来ないのです。これは神様やその恵み、愛においてもそうです、わたしたちの眼の前に見えるのは現実の出来事であり、その困難さです。神様、恵み、愛を見るには信仰が必要なのです。その事は今日の日課からよく分かります。今日の日課を見てみましょう。

 旧約聖書の日課は預言者エレミヤの召命の箇所です。神様がエレミヤを召し出されるに際してあれこれのやり取りがありますが、今日注目したいことは日課の最後にある預言者への働きの内容である言葉です。それは「見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」と言う言葉です。建て植える前に「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し」と言う言葉があるのです。強烈な言葉であると思います。エレミヤは御存じのように嘆きの預言者とも言われ、預言活動をする中で多くの苦しみに遭いました。神様からの言葉を伝えるとき、それは耳に心地よい言葉だけではなく、厳しい言葉が伝えられます。それを聞くのが嫌な民は預言者のエレミヤを迫害するのです。1月25日の聖書日課にはエレミヤ書の次の言葉を引用されていました。「このすべての言葉を聞きながら、王もその側近もだれひとり恐れを抱かず、衣服を裂こうともしなかった。」王も側近も目の前の豊かさに心を奪われて、エレミヤによる神様の言葉を聞こうとしなかったのです。肉体の目には見えにくいけれど神様の側のものを見るためには、わたしたちには、まず、抜き、壊し、滅ぼし、破壊しなければならないものがあるのです。
 福音書を見てみましょう。福音書の箇所は先週に続く箇所です。先週の終わりと今週の初めの1節は重なっています。それは次のような内容です。「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」。すなわちイエス様と共に恵みの時が来たことを言われた箇所です。それに対して人々はどうであったのかと言うと、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて」とありますから人々はイエス様の言葉に特別なものを感じたのです。でもそこに彼らは立ったかと言うと、そうではありませんでした。「この人はヨセフの子ではないか。」と言うことに立ちました。自分たちと同じ生活をしているもので、大工のヨセフの子に過ぎないではないかと言うことです。目に見えることを越えて神様の出来事に信仰でもって心が行くのではなく、肉の目の見えることに心が行って、イエス様を神の子として受け入れなかったのです。そしてそれに対するイエス様のきびしい言葉に腹を立て、イエス様を崖から落そうとしました。

 わたしたちの現実の歩みにおいても、わたしたちは経験してきていると思います。どんなに目の前にあるもの、見えるもの、聞こえるもの、肌で感じるものに影響を受けて生きているか。そのものが私たちが生きることに力や喜びを与えてくれるものなら、神様が与えてくださったと喜んで感謝して受け取ればいいのですが、そうではなく、わたしたちを不安にしたり、私たちが生きるのに困難を与えたりするものも多くあります。そしてそれに私たちがどんなに大きく振り回されているかと言うことも経験していると思います。力ある者が支配したり、繁栄したり、悪者、あくどいものがこの世で得をしているように見えたり、また、今新型コロナウイルスの脅威であったり、病気であったり、経済的な不安であったり、高齢による肉体、心、知力の不安であったり、それは目に見えない神さまとは関係なく、目に見えるもの、わたしたちのすぐそばにあるものとして強い影響力を持っています。しかし、今日わたしたちが御言葉から聞くことは、目に見えるものが全てではなく、隠れていて見えにくいかもしれないけれど、確かに真実なる神、命なる神、愛なる神が存在して、その方によって私たちは生かされ導かれているということです。たとえ、新型コロナウイルスで命を失うことがあったとしても、わたしたちの命は根本的に神様の御手の中にあると言うことです。そのことは信仰において心の目で見ることが必要なのです。

 そして今日与えられたパウロの文書からいえば、この世で生きていく時に私たちを導くもの、比較的手に取り、感じやすいものは神様の愛であると思います。そしてその愛に導かれて私たちが神様を大切にし、隣人を大切にして生きることであると思います。だれであっても愛は大切であることが理解できるものですから。此の世で、この愛に導かれ、出来るだけ目に見えないものに心を向け、それに導かれて生きていきましょう。