2022年1月23日「神の御心を実現される方」藤井邦夫牧師

礼拝説教

ネヘミヤ8:1~3、5~6、8~10、Ⅰコリント12:12~31a、ルカ4:14~21

 今日の旧約聖書のネヘミヤの箇所を見ると驚かされます。ネヘミヤですのでバビロン捕囚から解放された後、神殿は再建できたけれどエルサレムでの歩みがなかなかうまくいかない中で、エズラと協力して歩み、エルサレムを囲む城壁を完成さして外敵からの脅威を和らげましたが、今日の箇所はその後の出来事を伝えています。まず、「民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。」とあります。多くの民が集まり、一人のようになったのです。そして彼らはエズラにモーセによって与えられた律法の書を持ってくるように頼み、そしてエズラはその律法の書を夜明けから正午まで読んだとあります。それを聞いて理解できる人たちは男も女もそこに居て聞いたのです。エズラがその書を持ってきて彼らの見守る中でその書を開いたとき、民は皆立ち上がりました。そしてエズラが神をたたえると、民は皆アーメン、アーメンと言って、ひざまずき主を礼拝しました。すごい光景であると思います。この光景を思う時ふと私は不安を思いました。それはヒットラーの前で興奮して手をかざしている群衆や、整然として歩む兵隊の姿が頭をよぎったからです。現代で言えば、北朝鮮や中国の姿も思えます。でもこの場面は全く違うものであると思います。ヒットラーに対する出来事は力を誇り、権力を誇ったことから来る姿です。でもこのネヘミヤでの姿は、傷んでいた、苦しみの歩みをしていたものが、今恵みを得て、それを与えてくださった神の前に表している姿です。律法の書、すなわち神様の御心を心から求めているのです。そしてこの場面で私が印象的に思ったのは、長い時間立ってそれを聞いたということもありますが、それ以上に彼らがこれを聞いて泣いており、それにたいして、ネヘミヤたちが泣かないで、よい肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさいと民に向かって言っていることです。何故民は律法を聞いて泣いたのだろう。更にそれに対してよい肉と甘い飲み物を飲めとはどんな意味があるのだろうと思いました。わたしの想像ですが、今恵みが与えられている中で、民は昔の苦しみ、大変な歩みを思い出し、そして泣いたのだと思います。それに対してネヘミヤたちは恵みの出来事を感謝して受け取り、喜びの中で、前に向かって歩むようにと訴えたのだと思います。すなわち自分たちの過去の苦しみに心を向けるのではなく、神様の方に、その恵みに心を向けて、前に向かって歩むようにと。

 福音書を見てみましょう。イエス様は洗礼を受けられ、その際聖霊がイエス様の上に下ってきました。さらに荒野での試みに会われた後、霊の力に満ちて公けの活動に入られ、そして故郷のナザレに行かれました。安息日であったので会堂に行かれ、そこで聖書を朗読する役割に立たれました。そして、渡されたのはイザヤ書で、イエス様が開かれるとイザヤ書の61章の箇所でした。これらは偶然のように見えますが、ルカの意図はこれらは皆神様の導き、聖霊の導きによることを示すものでした。この箇所は第3イザヤと言われている預言者の言葉で、神殿が再建された中で、民に神様の恵みを伝えることを託された預言者の言葉です。そこには主の霊がある人に与えられ、それは貧しい人によい知らせを伝えさせるためでした。すなわち「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」でした。イエス様はこれを読まれた後、席に座られた後、期待の注目に対して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」といわれました。と言うことは、今この福音の出来事が私と共にやってきて成就したのだから、わたしを信じてわたしに従って歩みなさいとのイエス様の心であったと思います。あのネヘミヤが民に向かって神に心を向けて未来に向かって歩むように語りかけたのと、同じことを言われようとしたのだと思います。今日の日課ではありませんがその結果は、イエス様の思いとは違い、民のかたくなな心でした。
 今日の福音書はわたしたちへの呼びかけでもあります。この神様の恵み、良い訪れは、イエス様自身によって成就した。だからこの方を仰ぎ、神様を信頼して、顔を上げて、イエス様と共に今日を、そして明日に向かって歩みなさいとの呼びかけです。わたしたちの前には、オミクロン株と言う、とてつもない感染力を持った新型コロナウイルスが立ちはだかっています。また、高齢になるという、肉体も知力も衰えていくと言う現実が立ちはだかっています。あるいは病気のために、生活しにくいと言う現実が立ちはだかっています。貧しい人たち、すなわち色々な痛みを持っている人たちに良い訪れをもたらす方が来られ、それがイエス様である。だから顔を上げてこの方と共に歩みなさいと、今日の日課は、私たちに呼びかけているのです。

 では最後にこれを受け取った者たちの歩みのひとつを今日の使徒書のパウロの言葉から聞いてみましょう。今日の箇所は教会を人間の体に例えた有名な個所です。このことの背後には、人間には様々な持ち物を持った人たちがいると言うことです。そしてそれゆえに、優劣を付けたり、優劣をつけるゆえに誇ったり、卑下したりする現実がある。そうしたこの世の現実があると言うことが背景にあると思います。しかしイエス様を信じて福音を受け入れたものの生き方は違っている。神様はそれぞれの存在自体を大切なものとされていることを知っており、それゆえに自分に与えられたものがこの世的に見て小さなものであっても、それを受け取り、与えられた持ち物、能力は、それがお互いを助け合ったりして、生きるためのものである。だからお互いはそれぞれ持っているものを大切に尊重して生きる。その事を理解して、そう生きるのがイエス様の福音によって生かされた者の姿であるということを伝えてくれていると思います。此の世的に劣っていると見えることに心を奪われるのではなく、それぞれは神様からの賜物であることに心を向け、それを用いてお互いのために仕えあって生きる、一つとなるために生きる、その事をパウロはわたしたちに伝えてくれていると思います。