礼拝説教
イザヤ62:1~5、Ⅰコリント12:1~11、ヨハネ2:1~11
ヨハネ福音書ではイエス様の活動はカナでの婚礼における出来事としてはじめられています。結婚は聖書の中では象徴的な意味を持っています。神様とイスラエルの関係を花婿と花嫁、すなわち結婚の関係と見たり、結婚の祝宴は最後の時の天での祝宴の時と考えられたりしています。イエス様のたとえ話の中に、王が結婚の祝宴に人々を招くという話しがよく出てきます。とにかく結婚は特別なものを表すと同時にそれは喜びの時でもあります。イエス様の到来は喜びの時として始まっているのです。
その結婚の宴の時に一つの出来事が生じます。それは祝宴の時の大切なものであるぶどう酒が途中でなくなったということです。ぶどう酒がなければ祝宴は台無しになるのです。それをイエス様が最初のしるしとして水をぶどう酒に変えられたのです。この危機の時に、神の子であることのしるしである力を出されて水をぶどう酒に変えて、結婚式が台無しになるのを助けられました。今日の説教題を「最初のしるし」としましたが、ヨハネ福音書は奇跡のことを「しるし」と言います。それは奇跡がイエス様を神の子であることを証明するしるしと考えたからです。この福音書の最後のところに「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」とあります。
この最初のしるしの中でヨハネは重要なメッセージをわたしたちに示しています。それはイエス様の到来は喜びであることを示すと同時に、もう少しその事を具体的に示しています。それは清めのために用いる6つの水ガメに満たした水をぶどう酒に変えられたという出来事においてです。清めのために用いる水はユダヤ教においてとても大切なものでした。宗教的な汚れを取り除くために用いられました。ここで暗示されていることは、水ガメの水、すなわちユダヤ教では救いは不完全であったと言うこと、それをイエス様はぶどう酒に変えることによって完全なものとされたということを示しています。ユダヤ教では不完全と言うことは水瓶の数においても暗示されています。ユダヤ教において7は完全数でしたが、水ガメは6しかありませんでした、すなわち7に一つ足りないものなのです。福音書記者のヨハネはここでユダヤ教は救いにおいて不完全であったがイエス様は救いを完成される方であることを伝えているのです。
ではこのことが私たちの信仰、救いに関してどのようなものであるかを見てみましょう。わたしたちはどのような存在としてこの世で生きているのでしょうか。聖書はその事を初めにアダムとエバの堕罪の出来事で示しています。アダムとエバが罪を犯したということから私たちを支配し始めた、神のように賢くなりたいと言う思いの自己中心性、これは一番になりたい、上に立ちたいと言う思いに通じています。また、自分の感覚、欲望に支配されて、約束をも破ってしまう自己中心性で生きるようになったと示しています。このような存在となった人間の今の世界はどうでしょうか。人間の欲求を解放した資本主義の代表である、アメリカはどうでしょうか。理想の世界ができたでしょうか。国内においても貧富の差が拡大し、人種差別が根強く残っています。自分の国の歩みがうまくいかないと、アメリカファーストを歌った大統領が出現し、国における自己中心性を歌いました。そして多くの国民が喝采しました。とてもアメリカが理想の国とは言えないでしょう。では資本主義の反対の共産主義の上に立っている、中国はどうでしょうか。国の貧困ゆえに資本主義的な考えを取り入れ、アメリカに次ぐ豊かな国になりました。しかしここでも同じ問題の貧富の差が生じてしまいました。金持ちは莫大な資産を手に入れました。そこで共同富裕と言う考えを打ち出しましたが、しかしその中で国と言う自己中心性は大きくなっています。少数民族への圧迫、香港や台湾の存在を自立したものとして認めない方向性です。どちらの世界においても今人類が良い状態で歩んでいるとは思えないでしょう。
ではユダヤの世界ではどうでしょうか。神様はイスラエルの民に律法を与えて、生きる道を示されました。神と人を愛するという根本の中に、具体的な歩むべき道、律法を与えたのです。でも原罪の中にある歩みでは、それで十分ではなかったのです。その事が今日のカナの婚礼の出来事の中で示されているのです。
イエス様当時のユダヤ教はどのようになっていたでしょうか。ユダヤ教の指導者たち、律法学者やファリサイ人、そして祭司たちはイエス様と対決しました。社会的にも宗教的にも排除されていた人たちがいました。イエス様はその人たちのそばに行かれ、ユダヤ人たち、とくに熱心な人たちは彼らを排除していました。この違いはどこから来るのでしょうか。この背後には律法が大きな役割を果たしていたでしょう。律法そのものは立派な教えですが、それを守るかどうかが問われるとき、守る者は優秀で、そうでないものは劣った者として、低く見られます。そして傲慢と排除の姿が出てきたのです。
これに対してイエス様は新しいものをもたらされたのです。それは愛であり、恵みであり、喜びでした。そしてまことの命、救いをもたらされる方でした。また神のようになろうとする自己中心性、自分の欲望のために他者を用いようとする自己中心性を打ち破られる方でした。神様を第1とし、謙遜にその御心に従っていかれました。また、他者をその存在故に愛されました。だから痛んでいる人には手を差し伸べられました。その人を自分のために用いるのではなく、その人に仕える者になられたのです。そしてそこには愛がありました。そして人間の原罪、自己中心性、それを解決されるために、十字架による贖いの業を成し遂げられたのです。この歩みは新しいものであり、喜びのことでもありので、ヨハネは最初のしるしとしてカナの婚礼をわたしたちに示してくれたのです。感謝してイエス様を主として葵で歩んでいきましょう。