礼拝説教
イザヤ43:1~7、使徒言行録8:14~17、ルカ3:15~17、21~22
今日の主日はイエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられたことを覚える主の洗礼主日の礼拝です。福音書はイエス様が洗礼を受けられたことを伝えていますが、福音書によって特徴があります。マタイ福音書は罪のないイエス様がなぜヨハネの悔い改めの洗礼を受けられるのかと言う問題を取り上げていますし、正典ではないのですが、ヘブライ人福音書と言うのがあって、そこではイエス様の母と兄弟が「ヨハネが罪の赦しの洗礼を授けているから、われわれも言って彼から洗礼を受けよう」と言ったのに対して、イエス様が「わたしが行って彼から洗礼を受けるように私はどういう罪を犯したのか」と答えている箇所があるそうです。マタイ福音書の疑問の流れをもっと強く表したものです。しかしルカ福音書はこの問題に全く触れていません。そればかりでなく、イエス様が洗礼を受けられたという出来事に焦点をあてずに、その際生じたことに焦点をあてています。それはその表現を見ればわかります。ルカではイエス様は洗礼を受けられた。そしてと言う表現をとらず、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると」と表現しています。そしてそのあと二つのことが生じたことを伝え、そこに焦点があることが分かります。その後に聖霊が鳩のように降って来たことと、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声がしたと言うことです。イエス様が聖霊を受けられたのですが、その前にヨハネはイエス様自身が聖霊と火によって洗礼を授けられる方であることを伝えています。今年はルカ福音書が取り上げられるときですから、このルカ福音書に沿って、この出来事が私たちにどう関係するかを見てみましょう。
イエス様がこの世に来られたことは、イエス様を通して神様の御心がどのようなものであるかをわたしたちに知らせるためであると同時に、救いそのものを成就するためでした。ルカ福音書によれば、イエス様は聖霊と火によって洗礼を授けられる方であるとあります。今日の他の日課から見てここは聖霊を授けられることが示されているでしょう。今日の使徒言行録の日課ではイエス様の名によって洗礼を授けられたがまだ聖霊が降っていなかったので、ペトロとヨハネがその人に手を置くと、いわゆる按手ですが、彼らは聖霊を受けたとあります。使徒言行録で普通は洗礼と聖霊が与えられることは結びついているのですが、数少ないこの箇所を日課としたことは聖霊が与えられることに注目していることが分かります。そして聖霊が降って来た時に何が生じたかと言うと、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から聞こえたということです。イエス様は神様の御心を表す方であり、また私たちに神様の救いをもたらす方であるなら、このイエス様の上に生じたことは、わたしたちの上にも生じることを示しているとも言えます。すなわち、イエス様が聖霊による洗礼をわたしたちに与えるなら、わたしたちの上にも、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言うことが与えられ、生じると言うことです。
では「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者である」と言うことを見てみたいと思います。この「あなたはわたしの愛する子」と言うことが私たちにも言われるとは、今日の旧約の日課を見ればよく分かります。今日の旧約の日課はバビロンに捕囚された選ばれた民、イスラエルの民に向かって、すなわち神様への罪ゆえにバビロンに捕囚された民に向かって「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」と言われているのですから、今洗礼によって神様に招かれた私たちに対して「あなたはわたしの愛する子」と言われることは当然あることであると理解できます。
この「あなたはわたしの愛する子」をもう少し掘り下げてみましょう。キリスト教の神は人格的な神であると言われます。人格的と言うのは人格と人格が関係を持つ事において成り立つものです。たとえば、神様は昔アブラハムを呼び出されました。父の家を離れ神様が示される地に行け、と呼び出されたのです。そしてその時あなたとその子孫を祝福するとの約束を与えられました。アブラハムはその呼び出しにこたえ旅立ちます。そしてここから神様とアブラハムの関係が始まり、その関係が続いて行くのです。アブラハムは行く先々で祭壇をつくって神様の名を呼びます。神様は時に応じてアブラハムに語りかけられます。呼び出され、応答するその関係があることを人格的な関係であると言います。いわゆるあなたとわたしの関係です。
なぜ洗礼を受けなければならないのかと言う疑問があるかもしれません。神様が人類を愛しておられるなら、洗礼など言わないで、全てを救われればいいではないかと。キリスト教が示している神はそうではなくて、あなたを呼び出され、そしてあなたとの関係の中で歩まれるのです。「あなたはわたしの愛する子」と言うことは、わたしは人類を愛しているから、その愛の中にあなたもいると言うことではないのです。「あなたは」わたしの愛する子なのです。だから私との関係の中に生きなさいとの呼び出しが洗礼なのです。そして聖霊が与えられるとは、このあなたはわたしの愛する子と言うことを本当に受け入れさせるものであると言えます。素晴らしいことですから繰り返しますが、洗礼を受けたわたしたちは「あなたは」わたしの愛する子の中に入れられたものなのです。一人一人に「あなたは」わたしの愛する子としてくださったのです。あなたはわたしの愛する子だから、わたしとの関係の中に生きなさいと呼び出されているのです。
次に「わたしの心に適う者」を深めてみたいと思います。この言葉があることからわたしたちはこれはイエス様に対してだけのものと納得し、わたしたちへの言葉とは思いにくいものであると考えるのではないでしょうか。「わたしの心に適う者」と言う言葉を見ると、わたしたちはすぐに品行方正とか優秀であるとか、マザーテレサのように愛に満ちた行動をする人とかを考えてしまい、わたしにはとてもと考えてしまいます。これは聖書を読んでいての私の理解なのですが、なぜサウル王は神様から見捨てられ、ダビデ王はそうではなかったのかと疑問を思いながら考えていました。サウル王も見栄えは良いし、力のある王でした。ただ1回神様が示されたことを無視して行動してしまいそこから神様は離れていかれました。ダビデは立派な王ですから、その栄光にわたしたちは目を奪われてしまいますが、ダビデも他人の妻と関係を持ったり、家族を十分に治めることが出来なかったという面を持っているのに、なぜ神様はダビデから離れられなかったのかと思いました。そしてわたしの理解は、神様をないがしろにするかしないかの違いだと思いました。サウル王は神様から言われたことをないがしろにしましたが、ダビデ王は自分の欲望や優柔不断さから、正しい行動がとれませんでしたが、神様の使いから指摘されればその罪に気付き悔い改め、神様をないがしろにすることはありませんでした。また、イエス様が貧しいやもめがわずかなお金でしたが、持っているもの全てをささげたのを見て、そのやもめの姿をほめられましたが、この姿も神様を大切に思い、神様に寄りすがって生きている姿だと思います。金持ちはついついそのお金を大切にし、神様をないがしろにするので、富んでいる人に対する厳しい言葉が聖書にはたくさん出て来ています。
「わたしの心に適う者」は人間としての限界や弱さを持ちながらも、神様をないがしろにしないで大切にして生きることを示していると思います。洗礼を受けたわたしたちは、「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけられ、神様を大切にして生きるようにと呼び出されているのです。まだ洗礼を受けていない人たちには人格的な関係の中に入るようにと呼びかけられているのです。