礼拝説教
イザヤ60:1~6、エフェソ3:1~12、マタイ2:1~12
パウロは今日のエフェソ書の日課の中に、秘められた計画を「すなわち、異邦人が福音によってキリスト・イエスにおいて、約束されたものをわたしたちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となるということです。」と理解していることを示しています。異邦人は神様から選ばれた民イスラエル人以外の人々ですから、当時ではギリシャ人やローマ人が代表されるでしょうし、カナン地方にいた他の民族の人々、メソポタミア地方やエジプトなどの人々もそうでしょう。今でいえば私たちもそうです。その異邦人に神様からの救いが与えられるということは私たちには当たり前のこととして考えられますが、ここに「秘められた計画」と示されているように、それは当時当たり前のことではありませんでした。特に神様によって選ばれた民であると考えていたイスラエル人にとってはそうでした。この「秘められた計画」のことをパウロはさらに「すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が」と言っています。すなわちこれは始めから神様の御心の内にあったもので、初めには世に表されないで隠されていたといっているのです。
では世に現されていたものはどのようなものでしょうか。それはイスラエルの民に自分を示し、イスラエルの民を選ばれて、イスラエルの民と共に歩むということでした。まずアブラハムを呼び出され、祝福を与え、自分が示す地に行くように、すなわち自分の示すもとで歩むように、自分との関係の中で歩むように示されたのです。この歩みはイサク、ヤコブと続いていきます。その後エジプトの地で奴隷のような生活に落ちていたイスラエルの民の叫びを聞かれ、エジプトより救い出され、約束の地カナンに導かれたのです。その途中にイスラエルの民が生きるべき道を示すために十戒を代表とする律法を与えられました。カナンの地での他民族との様々な葛藤の末、ダビデという偉大な王に導かれて繁栄の時を与えられました。ダビデは権力をもった王としては珍しく神さまに忠実でした。その後預言者たちが与えられ、神さまのみこころに生きるように訴えましたが、結局はバビロン捕囚という苦しみをまた与えられました。不思議ですがこの外国への捕囚という中で、彼らの信仰心は深められたのです。その後捕囚から解放されてエルサレムに戻ってきましたが、その後の歩みも神様の前に十分なものではありませんでした。そして時が来て神の子イエス・キリストの誕生となったのです。
イエス様の誕生で確かに新しいときが始まりました。隠されたものが現わされたのです。それは今日の日課に示されています。当方の、すなわち異邦人の学者たちに、イエス様が示されたのです。神様の救いが異邦人に示されたのです。救いが全世界に与えられたことを示しています。ですからこの時を祝って、すべての人に示されたことを記念して顕現主日と呼んで礼拝を守っているのです。キリスト教の歴史の中ではイスラエル人を代表するユダヤ人がイエス様を十字架にかけた張本人だとし、また商売上手などから、憎み排斥した歴史があります。しかし、これは間違った理解です。パウロもそのことを理解していますが、イスラエル人が存在したからこそ、わたしたちはこの神様を知ることが出来たのです。もしイスラエル人がいなかったら、わたしたちはこの創造者の神様のことを知らず、暗闇の中を歩いていたかもしれません。またイスラエル人がいたからこそ、あのイスラエルの長い歩みを通して、神様の救いに達するのは人間自身の努力や資格では不可能で、神様からの恵みによることが必要であることが分かったのです。神様が、新しい救いの時を始められた時も、イスラエル人にその誕生を示されたことからも、イスラエル人にもその救いが与えられていることがわかります。ルカ福音書はイエス様が誕生されたとき、たぶん社会的には低い地位であっただろう羊飼いたちに救い主の誕生を知らされましたし、そのあと敬虔な生活をしていた老人のシメオンとアンナにも示されました。イスラエルの長い失敗の歴史の中でも、いつも神様が残された人たちがあったのです。小さくされた人達や神様に忠実に歩もうとしていた人たちです。これらは神様がすべての人を救おうとされていた初めからの計画であったのです。ですから私たちはこの事を神様に感謝するだけではなく、この事を担ってきたイスラエル人に対しても感謝するのが正しいことだと思います。
では最後にこの事が今を生きる私たちの信仰の歩みにどのようなことを語ってくれるでしょうか。わたしたち異邦人にも救いが来たということだけではありません。この救いは秘められた計画によってなされたということ、これはどのようなことを私たちに示してくれているでしょうか。それは救いは、すなわち神さまはわたしたちにとって隠れているように思えるときがあるということ、それでも神様は救いの計画をされているということです。わたしたちは様々な条件のもとに生まれてきますし、その歩みの中で様々なことが生じます。それは実はわたしたちの意に適ったものばかりではなく、逆の場合、逆な経験が多いということです。中には耐えられないように思うようなこともあります。神様は自分に取って隠れておられると思えるようなことがあります。しかし今日の日課は、そのようなことにおいても神様の秘められた計画があって、時が来れば神さまの救いの出来事が自分にも与えられるということです。そのことを示しているのです。
そして今日与えられていることは、今、どのような状況にあったとしても、今日、神の子イエス。キリストがあなたに与えられたということです。感謝を持って、信仰をもってこの事を受け取りましょう。そして旧約聖書の預言者がイスラエルの民に語った言葉「起きよ、光を放て。あなたを照らす光が昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。この預言者の声は、イエス・キリストという救い主を誕生の記念日を迎えた今の私たちにも与えられた言葉なのです。この預言者の声を受けて新しい年、2022年、立ち上がって光を放とうではありませんか。