2026年2月28日「疑い、迷いの中で」西川晶子牧師

礼拝説教

2026年2月28日「疑い、迷いの中で」西川晶子牧師

/2026年2月28日、3月1日 四旬節第二主日礼拝説教要旨

「疑い、迷いの中で」

創世記12:1-4a、ローマ4:1-5&13-17、ヨハネ3:1-17

ニコデモという、ひとりのファリサイ派の議員とイエス様の対話によって、今日の福音書の物語は進められます。ファリサイ派は聖書の中では、イエス様に敵対する立場として描かれることが多いのですが、このニコデモは、イエス様に会いに来た。夜に来るということは人目を忍んで来たと考えられます。イエス様に何かを感じているが、堂々とイエスの所に行くのは難しい…そのような葛藤の中で、ニコデモは夜の闇に紛れてやって来たのでしょう。

そのニコデモにイエス様は「新しく生まれること」を語られますが、ニコデモは「年を取った者がどうして生まれることができましょう」と答えます。自分はもうこんなに年を取ってしまった。変わりたいとは思うけれども、様々なしがらみに縛られ、こんなに凝り固まってしまった自分が、変われるはずがない。これは自分の立場を捨てきれないニコデモ自身の嘆きなのだと思います

しかし、そのニコデモにイエス様はこう言われます。「あなたを新しく生まれさせてくださる、神の恵みがある」。「新たに」は「上から」と訳すことができることばです。あなたは変われない自分自身に絶望しているかもしれない。しかし、そのわたしたちを「上から」、新しくつくりかえてくださる神の恵みがある。

ヨハネ3章16節を宗教改革者ルターは「聖書の中の聖書」と言いました。イエスという方の中に、そしてその方の十字架の上に、神さまからわたしたちへの思い、それほどまでに世を愛しぬかれた方の恵みが現れているのです。

 実はイエス様の十字架の際、イエス様の遺体を十字架からとりおろしたのがこのニコデモであったとヨハネ福音書は記します。もしかするとニコデモは、十字架のもとで「自分は遅かった、もうすべてが終わった」と絶望したかもしれません。しかし、すべてが終わったと思われた、そこから神さまは新しいことを起こされたのだと、十字架からの復活は示します。私たちは自分の弱さに、限界に絶望しなくともよい。そこから新しいことを、無から有を生み出してくださる神様、その方によって私たちはすでに上から捕らえられているのです。その方に信頼し、私たちも四旬節の旅を続けてまいりましょう。