2025年11月8日「終末に生きる」西川晶子牧師

礼拝説教

/2025年11月8日、9日  聖霊降臨後第22主日説教要旨

「終末を生きる」

ヨブ19:23‐27a、Ⅱテサロニケ2:1-5&13-17、ルカ20:27-38

教会の暦は、もう一年の終わりに近づいています。キリスト教会は伝統的にこの季節を、「終末」についてのみことばに耳を傾けるときとして、過ごします。この世界もわたしたちの命も永遠ではない、いつか神さまが定められた終わりが来る。ではそのあとはいったいどうなるのか、当然の疑問かもしれません。

今日のサドカイ派からイエス様への問いかけは、旧約聖書が伝える結婚制度、「レビラト婚」を指します(旧約聖書:申命記25章5節以下)。ある男が子を残さず亡くなった場合、その兄弟が亡くなった兄の妻をめとって、兄の名を家系に残すことになっている。しかしもし死後の復活があるとするならば、その女性は誰の夫になるのか。そうサドカイ派の人たちはイエス様に問答を仕掛けます。

イエス様は「あなたたちが考える復活と実際の復活とは違うのだ」と返答されました。そう言われても、私たちは釈然としないかもしれません。しかし、イエス様はおそらくこうおっしゃりたいのです。「あなたたちは答えの出ない議論に囚われているが、それは無意味なことだ」。このレビラト婚は、家系のための掟であると同時に、当時の時代ではひとりで生きて行くことが困難な女性たちを、婚家が守るための掟でもあったようです。

イエス様はこう言われます。「神は死んだ者の神ではなく、生きているものの神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである」(ルカ20:38)…神の掟と言うのは決して答えのない、意味のない「死んだ」議論のためにあるのではなく、いのちが生きるためにある。私たちが終末を考えるということは、空虚な議論をすることではなく、目の前の現実を、神と共に生きることです。

そのことをイエス様ご自身、そのいのちをかけて示されました。これらの問答をきっかけとして、イエス様はいわゆる当時の有力者たちのヘイトを集め、ついには十字架で死なれます。しかしイエス様はその十字架から復活されることにより、神の恵みはすべてに打ち勝つことを示されます。私たちをどこまでもとらえて離さない、神の恵みがある。この方に結ばれて生きているのだということに、わたしたちも希望を持ち、信頼して歩みたいのです。