聖書箇所:ヨハネ1:43‐51
説教題:「新しい一歩を踏み出す」
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなた方にあるように。アー
メン
- あなたは神の子
「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスさまに出会い、弟子として
召し出されたナタナエルの言葉です。この言葉を、私たちはどのように聞くでしょうか。私たち
は、主に「あなたは主です。あなたこそこの世界の王です。」と告白する者でしょうか。もし、
首を縦に振られるならば、実に幸いだと思います。もし、首を傾げる、或いは横に振られる方が
おられるならば、あなたのために今日のみ言葉はあるのです。ですからやはり、あなたも幸いな
のです。み言葉を通して、主が私たちを「あなたは神の子です。」と告白する者としてください
ますように。
- ヨハネ福音書
今朝、私たちはヨハネ福音書から御言葉を聞きました。ヨハネ福音書は、特徴的な仕方で書
き出されます。「初めに言があった。」マタイ福音書は、イスラエル民族の正統な王であること
を示すイエスさまに至る系図から始まります。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音
の初め」とその書物がどのようなものであるかラベルを貼ります。ルカ福音書は「テオフィロ様
」と書物を読んで欲しい人を指し示します。ヨハネ福音書は、「初めに言葉があった。」この言
葉から始まるのです。世界の初めに何があったのか、このことと、イエス・キリストを結び付け
てゆきます。言うまでもなく、それは、創世記に記される仕方を象りしています。「初めに、光
があった。」この言葉と、初めにあったもの、ヨハネに言わせれば、それはことばであると結び
つけ、神のことばなるイエスさまを見つめてゆきます。そのような視点でヨハネ福音書を読んで
みると、新しい発見があるかも知れません。
さて、創世記と同じ仕方と言いましたから、創世記の初め、神さまが6日で天地万物を創造
され、7日目に休まれたように、ヨハネもその翌日、その翌日と7日を書き連ねてゆきます。本
日の箇所は、4日目にあたる部分です。創世記で言えば、世界に光と闇、朝と昼が創られた日に
当たります。この日、何が起きたでしょうか。それは、ガリラヤへの道すがら、フィリポと出会
い、彼を弟子にし、そしてナタナエルを弟子にした場面でした。フィリポは、他の福音書にも登
場する弟子の名前ですが、ナタナエルはどうでしょうか。あまり馴染みのない名前かも知れませ
ん。何故なら、ヨハネ福音書にしか登場しない名前だからです。『12弟子』という固有名詞は
とても有名ですが、その名簿は福音書によって異なります。ナタナエルとは、他の福音書では恐
らくバルトロマイを指すのでしょう。バルトロマイとは【バル(~の子)】トロマイという意味で
すので、トロマイの子という意味です。ですから、バルトロマイの本名がナタナエルだと考えら
れています。今朝の日課で主に書き記されるのは、ナタナエルの召命でありました。ナタナエル
はどのようにしてイエス様の弟子となっていったのでしょうか。
- いちじくの木の下 ナタナエルは、初めのうちはイエスさまを訝しんでおりました。フィリポからイエスさまの
ことを聞き、ナタナエルは言います。「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」当時ナザレ
からはたくさんの偽預言者や偽キリストが出現していたそうですから、例えばオオカミ少年のよ
うに、もうナザレからキリストが出たと何度も聞いた、その都度騙されてきたよ、そういうニュ
アンスがナタナエルの言葉には隠れています。またナザレから神の子が出たのかい?そういう言
葉です。
さて、このナタナエルの反応に、フィリポは「来て、見なさい」と言います。これまでたくさ
んの偽キリストに騙されてきたであろうナタナエルです。その度に、喜んだ気持ちが沈んでいっ
た。そのことを何度も繰り返しているうちに、ナタナエルの心には、キリストへの希望が薄れて
行ってしまっていたとしても無理からぬことです。フィリポは多くを語りません。見ればわかる
。どれほど言葉を付け加えたとしても、本物のキリストを私たちが説明しきれないように、本物
だからこそ、ただ見てみればよい。フィリポの判断は的確でした。イエスさまは近づいてくるナ
タナエルに対し、「あなたはまことのイスラエル人だ、あなたには偽りがない」と言います。疑
っていたナタナエルの姿も、彼の本当の姿なのです。その疑いは、これまで何度も騙され、何度
も期待を裏切られてきたからこそできた、心の壁であったでしょう。イエスさまはその壁を乗り
越え、ナタナエルの心に触れます。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。」と。イエス
さまがナタナエルがいちじくの木の下にいるのを見たと言うのには理由があります。いちじくは
、聖書の中で最初に登場する植物です。善悪と知識の木から取って食べてしまい、自らが裸であ
ることに気付いたアダムとイブは、いちじくの葉をつづり合わせ身に纏うのです。いちじくの葉
によって体が守られたのです。列王記では「ソロモンの在世中、ユダとイスラエルの人々は、ダ
ンからベエル・シェバに至るまで、どこでもそれぞれ自分のぶどうの木の下、いちじくの木の下
で安らかに暮らした。」とソロモン王の時代、ユダヤ民族が平和であったことが語られます。い
ちじくの木の下にいる、とは、神さまの祝福のうちにあることを意味するのです。ナタナエルは
この日、イエスさまから「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た。」と呼びかけられました
。これこそナタナエルが最も望んだ瞬間でした。『主の祝福のうちに、あなたは確かにいる』だ
からナタナエルは答えるのです。「あなたは神の子です」と。
- 新しい一歩を踏み出す
ナタナエルへのイエスさまの言葉には、聞くべき事柄がもう一つあります。それはナタナエル
がイエスさまから「祝福のうちにある」と宣言されて、そこで終わらなかったということです。
ナタナエルはここから、イエスさまの弟子として歩み出していったのです。ここから、新しい一
歩を踏み出して行ったのです。この道の先には何があったでしょうか。数多の困難が待ち受けて
いました。信じて付き従ったイエスさまは、十字架につけられて殺されてしまいます。イエスさ
まを信じていると公言するだけで迫害されるようになります。しかし、ナタナエルは歩み出した
その道を引き返すことはありませんでした。今なお、道半ばです。なぜならこの道の目的地は、
やがて来る、天の国がこの世界に現わされるその瞬間だからです。「もっと偉大なことをあなた
は見ることになる。」神の子を神の子と告白する以上に、もっと偉大な時が、私たちには用意さ
れている。それこそがナタナエルの目的地であり、私たちの目的地であり、主と共なる道のりで
はないでしょうか。
新しい一年を歩み始めた私たちが、主の指し示す目的地を目指し、一つとなって歩んで行く
ことが出来ますように。
人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト
・イエスにあって守るように。