礼拝説教
イザヤ61:10~62:3、ガラテヤ4:4~7、ルカ2:22~40
み子の降誕の後に与えられた日課は、初めて神殿に行かれたときの出来事です。初めて
生まれた男の子は神様のものとして、神様にささげるためのものでした。彼らの清めの期
間が過ぎたときとあり、普通は母マリアの清めの期間で男子出産のときは40日間です。彼
らと複数になっているので、それに対していろいろの見解がありますが、今日はそのこと
は見ないで、神殿に行ったとき、二人の老人に出会ったこと、すなわちシメオンとアンナ
に会った時のことを見てみたいと思います。
イエス様が誕生されたとき、そのことが示されたのはまず羊飼いたちで、更にマタイ福
音書によれば東方の学者たちでした。東方の学者たちですから当然異邦人です。このよう
にイエス様のことを示された人達には特徴があり、意味を持っていました。次に聖書が示
しているのは今日のシメオンとアンナです。この二人の特徴は老人であることです。シメ
オンは年は書いてありませんが、メシアに会うまでは決して死なないと聖霊によって示さ
れていて、イエス様に出会ったとき、シメオンの賛歌と呼ばれている最初に「主よ、今こ
そあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。」と自分の死のこ
とを述べているのだから、相当な高齢であると想像されます。また、アンナは84歳になっ
ていたとありますから、現在でも84歳は高齢ですが、イエス様の当時としては相当な高齢
であったでしょう。
2人の特徴は何といっても、信仰に生きていた人たちです。シメオンのことを「正しい
人で信仰があつく」と書かれており、彼に聖霊の働きが及んでいることが3回も出てきま
す。「聖霊が彼にとどまっていた」「お告げを聖霊から受けていた」「霊に導かれて神殿
の境内に入って」と出てきます。神様の導きの中に生かされていた人であることがよくわ
かります。アンナは女預言者と書かれており、結婚して7年で夫と死別し、その後「神殿
を離れず、断食したり、祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」とあります。しかも彼
らは自分の救いだけを求めている人ではありませんでした。シメオンは「イスラエルの慰
められるのを待ち望み」アンナに対しては「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に
幼子のことを話した。」とありますから、自分に示されたことを人々に伝えているのです
。
これらのことは高齢者の多い、わたしたちにとって励ましではないでしょうか。マタイ
福音書の山上の説教の中のはじめの8福の教えで幸いであると挙げられている初めの方は
「心の貧しい人々」「悲しむ人々」でマイナスの状況にあり人達ですが、後半は「憐れみ
深い人々」「心の清い人々」とプラスの面が示されています。羊飼いや異邦人はどちらか
というとマイナスな状況を示していますが、シメオンやアンナはプラスの状況を示してい
るでしょう。完全にただしいと言える人はいないでしょうが、神様に誠実に生きていこう
としている老人を神様は喜んでくださり、また自分を顕してくださると言えるのではない
でしょうか。
さて最後に、3月までのテーマであるイエス様はどのような方であるかをシメオンの言
葉から聞いてみましょう。シメオンは幼子のイエス様に出会ったとき、わたしはこの目で
あなたの救いを見たと賛歌を言います。すなわちイエス様を救い主であると証ししたので
す。しかもそれは「万民のため」とあり、「異邦人を照らす啓示の光」とあり、「あなた
の民イスラエルの誉れ」とあります。旧約において救いはイスラエルの民が中心でしたが
、ここではイスラエルだけではなく、全ての民、すなわち異邦人に対して向けられていま
す。むろんイスラエルに対してもですが。イエス様はすべての人々、すなわち私たちもそ
れに含まれている、全ての人々の救いであることが、この幼いときに示されているのです
。
しかし私たちにとってこのように良いことが伝えられているだけではありません。母マ
リアにシメオンが言った言葉はまた重要なことでもあります。「イスラエルの多くの人を
倒したり立ち上がらせたりするために定められている」と。さらにイエス様自身は「反対
を受けるしるしとして定められている」とイエス様に受難が待ち受けていることが示され
ています。そして最後に示されている言葉が重要であると思います。そこには「多くの人
の心にある思いがあらわにされるためです」とあります。ここにある「ある思い」は新約
聖書に13回使われていますが、それはすべて悪い思いとして使われているそうです。イエ
ス様に出会うことは、神様の真実に出会うわけですから、その光に照らされ、いったんわ
たしたちの中にある肉の思いがあらわにされ、そしてイエス様のある姿へと導かれること
を示していると言えるでしょう。