2023年12月24日「受胎告知」藤井邦夫牧師

礼拝説教

サムエル7:1~11、16、ローマ16:25~27、ルカ1:26~38

 
 今日は12月24日、日本では25日が休日とならないので、今までこの日にクリスマス主
日を行っていましたが、今日の夜がイブ礼拝なので、今回は待降節第4主日の日課でこの
日を守ることにしました。この日のテーマは説教題にしましたように受胎告知です。すな
わち天使ガブリエルがマリアに神の子を受胎したことを告げる箇所です。有名なイエス様
の母マリアが出てきます。マリアが主人公のような個所です。しかし主人公はあくまでも
イエス様なので、その視点を忘れないでマリアに起こった出来事を見てみたいと思います

 マリアの出来事を見る前に今日の旧約聖書の日課を少し見てみたいと思います。今日の
箇所はダビデ王が神様の神殿を建立することを思う箇所で、それに対して神様はそれはダ
ビデではなく、ダビデの子が行うのだと示された個所です。ダビデは聖書によれば神さま
を常に第一にして歩んできました。戦いに行くときもいつも神様にお伺いを立てていまし
た。ダビデ王が歴史の中でも尊敬され、またダビデの子孫から救い主が出るとの預言も、
ダビデ王の時イスラエルの国が盛んであっただけではなく、神さまへの態度が神様に喜ば
れるものであったからだと想像されます。
 ダビデはある時一つのアイデアを思いつきました。それは神様のために神殿を建てると
いうことでした。神様は出エジプトの時以来、いつもイスラエルと共に歩んでこられまし
た。そしてシナイ山で十戒が与えられて以来、十戒の書かれた石を収めた契約の箱は移動
式の幕屋に治められていました。移動するときはその幕屋はたたまれ、また新しいところ
に行けばそこで組み立てられました。ですからエルサレムを首都としたイスラエル王国に
なったので、ダビデは善意で神様にふさわしい立派な神殿を建てたいと思いついたのです
。そこで預言者ナタンに相談しました。ナタンはダビデが神様をいつも第一としており、
神様に喜ばれる存在であることを知っていましたので、ダビデの思うことを行いなさいと
勧めます。ところがその夜、ナタンに表れられた神様の答えは違ったものでした。ダビデ
が神殿を建てるのではなく、ダビデが死んだ後、ダビデの子が建てるというものでした。
そしてそのとき神さまが強調されたことは、自分がダビデをイスラエルの指導者にした。
そして自分がイスラエルの民を導き、定住する地を与えた。そして将来にわたっても神様
がダビデのために家を興すというものでした。
 なぜこのように神様は言われたのか。想像すると、善意ではあってもダビデが、神様の
家を作る。このことにおいて知らず知らずのうちにダビデ自身が主役になる。ある意味で
の傲慢の位置に着く。そのことを神様はとどめられたのではないかと思います。あくまで
も神さまが主であるのです。
 さて、福音書に入って見ましょう。最近読んだ機関紙「るうてる」の巻頭の説教で西川
晶子牧師の文章にそうだなあと感じました。そして女性牧師ならでの視点もあるなあと感
じました。受胎告知のマリアの出来事ですが、マリアのイメージですが、わたしたちはつ
いつい成人したマリア、イエス様の母マリア、「清らかさ」「純潔」のイメージをもって
想像します。カトリックの人たちがマリア様と崇めるイメージです。わたしも修学旅行の
時か、その後だったかもしれませんが長崎に行ったとき、マリア像を買ってずっと家にお
いて、時々それを眺め女性の理想像のように思っていました。
 でも西川牧師が書いているようにマリアは当時の結婚適齢期と思われていた10代前半の
少女であったでしょう。しかも「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言われてい

るように、田舎の小さな村に過ぎません。だから田舎娘です。その少女に天使ガブリエル
が現れて、「おめでとう。あなたは神の子を宿す」と言われたのです。マリアは驚き戸惑
ったでしょう。自分はいいなづけのヨセフとも関係を持ったことはない。それなのに子供
を宿すとは。そしてその後の困難なことも頭に浮かんだかもしれません。当時婚約は結婚
と同じほどの重さを持っていました。ですから他の男と関係することは姦淫の罪になりま
す。そして姦淫の罪は石打の刑という、むごい死をもたらします。それだけではなく周囲
の冷たい目が襲うでしょう。ですからマリアの良さというか、ほめられる点は、このよう
な困難があることが想像できるのに「お言葉どおり、この身になりますように」と天使の
励ましがあったとはいえ、それを受け入れたことです。
 マリアだけではありません。マタイ福音書によれば、夫になるはずのヨセフの出来事も
記されています。ヨセフはまだ関係を持っていないいい名づけのマリアが身ごもったこと
を知りました。彼は悩んだでしょう。彼は正しい人でしたから、そのことを受け入れるこ
とはできません。多分マリアを守ろうとしてでしょうがひそかに離縁しようとしました。
しかし夢に主の天使が現れてマリアは聖霊によって宿ったと告げるのです。ヨセフの疑い
や苦しみは大きかったでしょうし、もしかしたら人々の冷たい目や言葉があるかもしれま
せん。しかしヨセフ天使の言葉を聞いて、それを信じマリアを受け入れたのです。
 この出来事を見るとイエス様の誕生には母マリアも父ヨセフも、非常に困難さを伴って
この誕生を受け入れたことが分かります。このことをイエス様の将来のことを指し示して
いると言えるでしょう。非常に困難な中にも神さまのみこころに従うという歩みです。イ
エス様が十字架にかかられ復活された後、近いころにイエス様のことを賛美した言葉がフ
ィリピ書の2章にこのように書かれています。「キリストは神の身分でありながら、神と
等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分にな
り、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それ
も十字架の死に至るまで従順でした。」このように神様に従順なイエス様はその誕生にお
いて、その母や父においてもその従順さを顕すような出来事があったのです。