2023年12月17日「イエスを指し示すヨハネ」藤井邦夫牧師

礼拝説教

イザヤ61:1~4、8~11、Ⅰテサロニケ5:16~24、ヨハネ1:6~8、19~28

 
 今日は待降節第3主日です。先週はイエス様の道備えとしてのヨハネでしたが、今日は
同じヨハネが出てきますがイエス様を指し示すものとしてのヨハネです。この待降節の中
心は無論イエス様です。イエス様がどのような方としてヨハネは指し示したかが中心とな
ると思いますが、最初にそのヨハネ自身の姿を少し見て、その後にどのような方として指
し示したか、証ししたかを見てみたいと思います。
 バプテスマのヨハネは今日の福音書の日課の19,20節に「あなたは、どなたですか」
という問いに明確に「わたしはメシアではない」と答えました。多分人々はメシアである
との答えを期待していたでしょう。なぜならメシアの到来を待ち望んでいたからです。そ
して今日のはじめの方の8節にも「彼は光ではなく、光について証しするために来た」と
明確に述べられています。これはヨハネが神様の前に、しっかりと立ち、神さまのみここ
ろをしっかりと聞いていた人であることを示しています。ふつう私たちは自分を特別な人
と思いたい傾向をもっています。オウム真理教の麻原彰晃や、統一教会の文鮮明などのよ
うに、自分をメシアにする人は多く出てきます。イエス様も世の終わりの混乱の時に、自
分はメシアと名乗るものが多く出ると注意されました。自分は特別な人だということを思
いたい傾向を私たちは持っていると思います。でもヨハネはしっかりと指し示すものとし
て立っていたことを福音書は示しています。このことからも説教者や牧師は指し示すもの
に過ぎないところにしっかり立つことが大切であると思います。
 ではヨハネはイエス様のことをどのように指し示したのでしょうか。8節ではヨハネは
光ではなく、光を証しするために来たと示されています。さらに25節以下で洗礼について
問われたときに、自分は水で洗礼を授けるが、と述べ、自分はその方の靴の紐を解く資格
もないと言っています。そして今日の日課の外ですが、「「霊が降ってきて、ある人にと
どまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」と述べて、自分はそ
れを見たと言っています。」すなわちイエス様は聖霊によって洗礼を授ける方であること
を示しているのです。そしてこのことは4福音書すべてに示されています。イエス様は聖
霊によって洗礼を授ける方であるということが当時の人々に示されていたことだというこ
とがよくわかります。ヨハネ福音書では今日の日課の後に。イエス様を神の小羊と指し示
しているヨハネの姿がありますが、このことは受難節において十分に見ることが出来るの
で、今日は聖霊によって洗礼を授ける方であるとの証しを見てみたいと思います。
 水の洗礼と聖霊の洗礼はどう違うのでしょうか。Ⅰコリント12:3に「聖霊によらなけれ
ば、だれも『イエスは主である』と言えないのです。」とあります。聖霊は三位一体の一
位格です。すなわち神さまの側のものです。その働きによってイエス様は自分の主である
と告白するのです。神様の側の働きが自分に及ぶ、そのような働きをするものが聖霊です
。その聖霊による洗礼です。
 一方水による洗礼はどうでしょうか。自分の決断と神様の約束がそこにあるから、大き
な意味は持っていると思います。水による洗礼は旧約の割礼に似ていると思えます。割礼
はイスラエル民族としての誇りを与えたでしょう。しかしそこに生きる力を十分に与えた
とは思われません。イスラエルの歴史を見ればよくわかります。バプテスマのヨハネのよ
うに生きようと洗礼を受けたとします。彼の姿にあこがれて、荒れ野での生活、いなごと

のみつで生活をする厳しい歩みをしたとします。厳しい容貌に支配され、何らかの充実感
は感じたかもしれませんが、そこにはまことの平安や喜びは、そして永遠の命の内に生か
されているという思いはないでしょう。ヨハネが言うようにあくまでも人間にとどまり、
禁欲によって欲望を抑え込んでいるだけなのですから。
 イエス様の名による聖霊による洗礼はどうでしょうか。聖霊の働きにより、イエス様を
自分の主であると告白するのです。イエス様を自分の主として歩むのです。そこには何が
生じるでしょうか。イエス様と結ばれて歩む時、なにが生じるでしょうか。ルターはある
意味で神秘的なものを見ました。それは属性の交流という考えです。それぞれが持ってい
るもの、それぞれに属しているものが交流するというのです。すなわちイエス様が持って
おられるもの、真の光、真の命、愛、赦し、弱くされている人達に心を向けること、そし
て深い同情を思うこと、それがわたしたちのものとなり、わたしたちが持っているもの、
罪、敵意、憎しみ、滅び、死がイエス様のものとされるというのです。これを聖霊の働き
とみてよいと思います。イエス様はそのようなものをもたらす方としてこられるというの
です。
 ヨハネの証しのように、聖霊によって洗礼を与えてくださるイエス様が来られるのです
。今年も喜んでイエス様の降誕を待ち望みましょう。